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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #11

  社交界の中枢であったラテンクオーターには、数々のスターが訪れた。
  まだ22歳の若造ながら博教は彼ら彼女と積極的に交流した。
 
  勝新太郎とは、お店で初めて会った。
 大学の先輩岡村光晴の紹介であった。
  そして、勝新太郎から若山富三郎、田宮二郎などを紹介された。

  下獄する以前に彼の主演した「鯨神」を二人で一緒に「銀座大映」で観たり、日比谷三信ビル地下一階の「ピータースレストラン」で食事したり、新宿のクラブへ遊びに行ったり、玉緒夫人の初めてのお産を山王病院に見舞いに行ったりなどしていた仲である。

 勝新太郎も博教のことを気に入ってくれた。
 しかし、博教は、その取り巻きになることは一度としてなかった。

 「そりゃあもう勝新はバリバリの色気のある魅力的な男だったよ。でも俺には、もう、あにきがいたでしょ。裕次郎と勝新もイイ仲だったけど世間的にはライバルだったわけですよ。だから俺が勝新に気を許して仲良しになるというのは、あにきの忠臣として裏切りなわけですよ。そういうバランスや距離感は常にありますよ。例えば、オマエが、タモリに気に入られて『タモリさんが凄い!』って言ったら殿も面白くないだろうしね。わかるだろ。
親分っていうのは乾分にも嫉妬するけど、乾分は絶対、親分だけを一途に守り立てていくべきものなんですよ」

  当時柔道日本一で名を馳せた明治大学柔道部の坂口征二も「先輩、焼肉御馳走して下さい」ラテンクオーターにやって来た。
  かって父・梅太郎が開催する素人相撲大会には、市川出身の柔道の高段者である加藤幸雄も参加していた。
  加藤は木村政彦以前の昭和26年に、ブラジルでグレイシー一族と最初に戦う日本人としてエリオ・グレイシーに敗れはしたものの歴史に名を残す柔道家でもあった。
  そして加藤の塾生で全日本3位になる関勝治が明治大学で坂口征二と同級生になり、この関勝治の紹介で学生時代から坂口とは面識があったのだ。

  また市川出身でミューヘンオリンピックの準決勝でウイリアム・ルスカに敗れ無差別級銀メダリストとなる西村幹樹も博教と一家揃って実懇で、その縁で、プロレス転向前のルスカやバッファロー・アレンなどとも交友があり、博教の柔道人脈に繋がることとなった。

 後に格闘技界に参入することにもなるが、相撲と柔道が博教のバックグランドにはあった。

  坂口征二を「京城苑」に連れ、食事後、坂口と赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」へ行くと、当時「日劇ミュージックホール」のナンバーワンダンサーの小浜奈々子が「坂口さん、今晩は」彼女はそう言って坂口の隣に座った。
  柔道日本一ともなると、もて方も違うのだなと博教は思った。

   若大将・加山雄三も常連客のなかにいた。
「もしもし、お客様、ネクタイをなさって戴きませんと……」
  とある晩、クローク係にやんわりと声を掛けられたのは加山雄三だった。上着は着ているがネクタイをしていない。
「あ、すみません。車にありますからお借りする必要はありません。取ってこようっと」
 博教がたまたまクロークの横で電話しているとそんな光景を目撃した。
〈加山雄三って何て素直なんだろう〉と博教は思った。
 その後、ひょんなことから加山氏のところへ電話をしたこともあった。
  当時、オーストラリアから日本へ来たダイアンという金髪の女子大生が、加山雄三の家に電話してくれと博教に頼んだ。
  彼女の手帖にあった彼のところに男の声で電話してやった。
 それまでは彼女がいくら掛けても、
『モ・シ・モ・シ・カ・ヤ・マ・ユ・ウ・ゾ・ウ・サ・ン・イ・ラ・ッ・シ・ャ・イ・マ・ス・カ……』
 なんて女の声だから、繋いでもらえなかったらしい。
 博教が電話をすると『はい加山です』って本人が出て『一寸待って。あなたと喋りたがっている女がいる』とダイアンと代わった。
  そしてニュー・ラテン・クォーターでふたりを会わせたが、彼女はあっさりと振られてしまった。
  その後、傷心の彼女を慰めるために、有楽町ヘマーロン・ブランド主演の『片目のジャック』を見に連れて行った。

 あの力道山もお店にやってきた──。

  力道山が店に初めて来たとき、博教はすぐに挨拶に行った。
  新田新作を巡る若き日の旧交を温めた後、力道山から「さっきラテン・クォーターの用心棒に『ゆっくり飲めや』みたいなこと言われたんだけど、なんだあいつは!」と不機嫌そうに言われた。
  難癖をつけられたのは博教の同僚のひとりであった。
  彼は力道山のファンであったが、ただ言葉遣いとか態度が力道山を敬愛してるって感じがしないからだった。
  力道山はチヤホヤされるのに慣れてたから腹を立てたのだろう。
  しかし、この日、それが揉め事になることはなかった。

  またある日、その当時かなりの勢力があった右翼の組織の一行と力道山が揉め事になった。
「おう、力道山よぉ! ゆっくり飲めや」と絡んできた。
 〈そんなこと言うんなら金でも払ってやればいいのに〉と博教は思って見ていた。
 力道山だって猪木とか大木金太郎は殴れるけど、知らないヤツは下手に殴れない。殴ったら撃たれるかもしれない。
 力道山の顔には「迷惑」と書いてあった。
  結局、空気を読んで、その客を博教が叩き出した。
  事を終え、博教が席に戻ると、力道山が「ユーがもし負けたら撃ってやろうと思って」と言って、博教にそっと拳銃を見せた。
  力道山はピストルを長嶋茂雄に見せるだけでなかった。
  その前には、店の中で張本勲にも見せびらかしていたから、案の定、博教にも見せたのだろう。

  博教は自分が日々、携帯している拳銃を他人に無闇に見せまい、と自戒した。

  力道山が店へ来る際は、女かスポンサーと一緒にやってきた。
 もちろん力道山はもともと力士だし、レスラーだから自分がお金出すことはなかった。
  実業家か、政治家の楢橋渡とか川島正二郎の秘書とかが力道山を連れて来て、向こうは金を払いながらも「今日はお目にかかれて嬉しいです」と恐縮し、力道山の方は「おうっ!」と答え「時間を取って来てあげてる」って感じであった。

「社交場だから日本一の力道山は絡まれやすかったね。みんな『俺は力道山に声かけてやったよ』って自慢話にしようと思うんですよ。そういう輩に睨みを効かせていたのが俺。力道山は泰然自若としていてタニマチ慣れしてるんですよ。お相撲さんだったから。でも別格だったよ。英語もベラベラだしさ。車だって自分が持ってる車の10倍ぐらいカッコいいヤツに乗ってるわけじゃない。もう佇まいがさ、強いマハラジャなんだよな。戦うマハラジャかな? それで顔もいいしさ、着てる洋服も、とにかくひとつひとつが珍しくてね。その当時で、よく汗を取る蜂の巣みたいな感じのシャツがあるでしょ? ああいうのの黒いヤツで、絹でできたようなのを着ててね。俺が力道山とただひとつだけ同じだったっていうのは、銀座の『ウォーカー』って靴屋で力道山が買ったっていう靴を買ったんだけど、もう泣きながら買ったんだよね(笑)」

  力道山といえば酒乱ぶりが喧伝されていたが、博教本人は一度もそんな荒れた力道山の姿を見たことがなかった。

  ニューラテンクオーターに訪れる有名人で最も酒乱だったのは、三船敏郎だった。すぐにデカい声出して、いきなり「オ●●●!」とか言うので「この人、大丈夫かよ?」と博教は思った。
  三船敏郎が「酔っ払って黒澤監督の家まで猟銃を持って行って、それで喧嘩になったら撃とうとしたり、泥酔したまま鎧兜を装着して近所の石原裕次郎宅に討ち入りした」というエピソードを聞いていたので、三船敏郎が客のときには、博教は職業上、目を凝らして監視していた。

そんな力道山が東声会の会長、町井氏に殴られることがあった。

「あの人はケンカすごかったもん。とにかく手が早い。力道山なんか震え上がっちゃいましたよ。ホントにパカパカパカーッて殴っちゃうから、もう力道山なんか手出しもできませんよ。下手に出して『この野郎!』なんてやったら、そこで殺されちゃうから。バーンって撃たれちゃいますよ」

  町井氏と力道山の関係に触れておくと、町井氏は日本プロレス協会の監査役でもあり、そして、力道山も東声会の最高顧問だった。
 町井氏は山口組の田岡一雄氏の舎弟にもなっていた。
  当時の日本プロレス協会は“日本の首領”こと児玉誉士夫氏が会長で、山口組組長の田岡一雄氏が副会長であった。

 当時は表社会も裏社会も交流を重ね、そこでは序列が守られていた。

  博教の仕事も3年目となった。十九歳の時二万円だった用心棒代が年々多くなり、二十二歳の頃は三万円貰っていた。
  いつも一緒につるんでいた親友の後藤清忠は、会社を辞めてこれといった職にもつかなかったので、アパート代四千八百円は博教が毎月払った。
  男前で夜遊びが好きなプレイボーイの後藤は、とにかくお金がかかった。
 このまま何時までもぶらぶらさせておく訳にも行かないので、時々店にやって来る原宿セントラルアパートの井野社長に金を借りに行って、後藤に会社をやらせることにした。
  後藤にやらせた広告代理店がブラジルの月刊誌に、一年間、本田技研の広告を取った。
 その夜は、赤坂の「コパカバーナ」で乾杯した。
  後藤は翌日から次々と仕事を取って来た。
 車も中古の観音開きのトヨペットからドイツ製のNSUに換え、ますます、もてるようになった。
  男前だった後藤は「日劇ミュージック・ホール」で大勢のファンを魅了したオーストラリアのヌードダンサー、ピーチェス・ブラウンを恋人にして意気盛んだった。

  二人は車でどこにでも出かけた。
 博教と後藤は、若くて強靭な体力があり、怖いものしらずのコンビになった。
  雪が降る2月、後藤が運転する屋根なしのポルシェで湯河原から東京まで戻ってきたとき、運転する後藤があまりに寒がったため、上着もシャツも着せて上半身裸で帰ってきたが博教は風邪一つ引かなかった。

 彼らは青春が続くことを疑わず、一寸先の闇は予見しなかった。

「後藤のことはとにかく信頼してたよ。とにかくあいつはモテるんだよ。
男前だから。柔道部だから体力も並外れていたね。俺と組まずに俳優になってたらなーって今は思うね。あの頃の俺たちは若くて血が滾っていてスタミナが桁外れだったね」

クェート旅行

 博教に転機が訪れるのは一人の外国人との出会いだった。
「講道館を知っていますか」
 ニューラテンクオーターの店内で、アルズマークと名乗る、体重百五十キロの大男が英語で話し掛けてきた。
 「知っている」と答えると「地図を描いてほしい」と言った。
  その上品で丁寧なものごしから一目で彼を気に入ったので、案内する約束をした。
 翌日、彼の泊まっているパレス・ホテルのロビーで四人の仲間と一緒に待っていてくれた大男と会った。
  彼の用意したハイヤーで講道館に行き、一緒に行った柔道四段の後藤清忠と、高段者の乱どりを見せたりした。
 帰りの車の中で、彼について尋ねるとクウェートの石油でのビジネスをしていると言った。
  博教はクウェートという国の名を初めて耳にした。
 しかし彼は、博教がこれまで二十二年間に出合って来た人の中で、これほど爽やかな人はいないというくらいスパッとした性格と聡明な貌と、体重百二十キロの博教より一廻り大きい躰を持っていて、博教をぐいぐいと魅き込むのだ。
 氏も十歳年下の博教を気に入ってくれたらしく、親愛の情を示して、その腹を拳固で殴っても怒ったりしなかった。
「アレクサンドリアの大学時代、水泳の選手だった」
  三度目に会った芝のクレッセントでエスカルゴを喰べながら、そんなことも話した。
  横浜の『ナイト・アンド・デイ』、築地明石町の『治作』、新橋の『田吾作』、上野のキャバレー等、氏が日本を離れるまで色々と案内した。
  半月後、博教の部屋に、彼からローマ字で博教の名前が彫られたシェーファーの万年筆とボールペンのセットが郵送されて来た。
 それからまた数日して、ホテル・ニュージャパン六七八号室に彼から電話がかかってきた。
  以来、ふたりは頻繁に会った。
  横浜に行った時、軽機関銃で鹿狩する話をしてくれた。所有しているという五十二連発の軽機関銃を「撃たせてもらいたい」と願うとあっさり承知して、いつでもクウェートヘ来いと請け合ってくれた。

「アズルマークは一気に意気投合したって感じ。「プライド」を見てたらわかるだろ。俺、外国人にも言葉が通じなくてもヘッチャラなのよ。でも、彼が現地では大物だということは最初わかんなかったね。日本で機関銃の話が通じる奴が現れるとは思わないし。クエートなんて国があるのも知らないよ。湾岸戦争とかの遥か前だぜ。若い頃に大食い競争をして俺に勝ったのは奴くらいしかいませんよ」

  ある晩、博教は危ういところで命拾いをするという目に遇った。
 後藤と後藤の彼女の葉子の誕生日祝いを二人で「高島屋」に買いに行った夜、刺されそうになった。
  昔から葉子と付き合っていた慶応ボーイが、ヤクザを雇って彼女との仲を裂こうと後藤を脅かした。その間に博教が割って入ったのだ。
 博教がこの夜刺されも切られもしなかったのは、運良くスリッポンの靴を履いていたからだ。
 どうしてあんな真似が出来たかと、後になっても不思議に思えるくらいの早さで靴を脱ぎ、それを両手に持って闘った。
 そして全身を刃にして突いて来た男の匕首を、ムチのようにしなった靴の先でたたき落したが、間一髪だった。

  博教は、この夜、相撲が少しくらい強いことなど、なんの役にも立たぬ命懸けの世界に身を置いていることを痛切に感じた。
  博教を刺そうとして向って来たヤクザ者の見事なほどの集中力を学んだ。
  敵がキラリと光るものを、こちらに一瞬見せて脅したから殺されずに済んだのだ。
 〈俺も拳銃を持とう〉
  今、持っているものより高性能のそれが欲しかった。
  拳銃なら誰だって持っている。
  用心棒としてケンカに勝つにはもっと強い道具の機関銃が必要だと思い立った。
  当時、ケンカに機関銃を使う人間などどこにもいなかった。

 その妄想は、博教を行動へと駆り立てた。
 
  昭和38年3月──。
  博教が二十三歳のときに、一ヵ月の日程で中東のクウェートに向かって出発した。
 当時クウェート入国に必要な査証は、どんなに早くても三ヵ月しなければ貰えなかった。
 クウェート旅行したいと申し入れると、帰国寸前のアルズマーク氏、自らがクウェート大使館に連れて行ってくれ、保証人となり、査証の手続きをわずか十分でやってくれた。
  この時、彼のクウェートでの実力が並々ならぬものであることを知らされた。
  そして彼が、アラビア石油の重役であることは後日知った。

  東京から北廻りでストックホルム、コペンハーゲン、ロンドン、パリ、ローマを観光することにした。
  これには、裕次郎の影響もあった。
  石原裕次郎は昭和34年から38年までに『世界を賭ける恋』『闘牛にかける男』『アラブの風』『金門島にかける橋』、『太平洋ひとりぼっち』と、5本の海外ロケ作品に主演した。
  東京オリンピックが開催される以前のまだ日本からの海外旅行者が一人、350ドルしか持ち出せない鎖国ともいうべき時代に、北欧、パリ、ローマ、マドリード、カイロ、台北、サンフランシスコ等の海外ロケヘ出掛けているのだ。
  博教は、裕次郎のやることなら、なんでも真似たかった。

  旅の初めにデンマーク、スウェーデンに寄った。それは裕次郎が北欧の旅から戻った約三年半後のことである。
 欧州行きが三日後に迫った午後、日活撮影所で『太陽への脱出』を撮影中の裕次郎を訪ねた。
「ヒロ坊、お前って真っ白けじゃねえか。スウェーデン、デンマークに行くんなら、これから日活国際会館の床屋に置いてある、サンタンランプを浴びて黒くして行け。北欧は太陽のない国だから色が黒いともてるんだ。いいか絶対黒くしろ」
 と裕次郎は言った。
 そして博教が持って行った大学ノートに、パリ、マドリード、ローマのナイト・クラブや、美味しい料理店の名を何軒も書いてくれた。
「いいか、他の店には何か別の用事があって寄ることが出来なくてもいいが、マドリードの『カサブランカ』ってナイト・クラブには必ず行けよ。絶対に気に入るからな。それは俺が保証する。世界中の美しい女がうじゃうじゃいるんで、びっくりするなよ」
  実際、ロンドンからマドリードに入った博教はタクシーで「カサブランカ」には行った。
  どんなに素晴しい店かと思ったが「ニュー・ラテン・クォーター」と比較すればお話にならないほど野暮ったい。
 今更ながらスペインが欧州の田舎と言われていることを実感した。
 係に案内されてテーブルに着くと、支配人にチップを渡してから、店一番のホステスを呼ばせた。
 やって来たのは太いまゆ毛をした牛のような女だった。
 裕次郎がノートに「カサブランカ」と書いてくれた時点では、リタ・ヘイワース扮するカルメンのような女にめぐり逢えるのだろうと胸いっぱいだったのに……。
 ヨーロッパに出発する直前だったが裕次郎の言い付けを守ってサンタンランプを浴びに行った。
 一回五分から十分。それを三十分にしてもらった。
 その為に翌日顔中が火ぶくれとなった。

 ──話を進めるため各国での珍道中ぶりは、ここでは割愛しよう。
  (百瀬博教は、この道中記も自費出版で残している)

  ヨーロッパ各国を巡回し、旅の目的地、クウェート空港に着いたのは夜だった。
  そして此処に降りた客は博教一人だった。
  石油に浮かぶ国と呼ばれ、石油埋蔵量が世界最大であり、国民は総て無税、保険も教育も国が世話するという世界で一番金持の国の玄関にしては、みすぼらしく見えた。
 憧れの地に着いた昂ぶりに頬がほてった。
 博教をようやく認めたらしい係の男が走って来た。
  ホテルで一泊することにした。
  フロントで宿帳にサインする時、クウェート国のジェネラル・マーチャントであるアルマズーク氏の名を出したので、召使いも一緒に泊れる、大きな部屋に案内された。
  部屋数が五つもあるスイートだったから、持ち金を全部はたいても支払いは危ぶまれた。
 が、嬉しいことに早朝、アルマズーク氏の友人が部屋代を払ってくれた。
 流石、石油の上に浮かぶ国の重鎮だなと、ほっとしながら感心した。
 国際電話したわけでも、旅に出る前にそちらへ行きますと、手紙一本書いたわけでもないのに、日本で接していた以上に感じよく、アルマズーク氏は自分の屋敷へ迎えてくれた。昼食が終るのももどかしく、
「軽機関銃見せて下さい」
と催促すると、氏は奥から抱えて、それを持って来て見せてくれた。
 思っていた以上に小さかった。
  物珍しくていじくりまわしていると、
「これはプレゼントだ……」
 と言って、コルト三十八口径自動拳銃と銀色のスペイン製の婦人用拳銃ラマをくれた。
  その銃把には貝が白く磨かれたものが装飾されていて、いかにも貴婦人が持つのにふさわしい、美術品のような銃だった。
 博教は、ホテルを出て、アルマズーク氏の屋敷にやっかいになることになった。
  来る日も来る日もプレゼントされた拳銃を磨いて暮した。
 もう、嬉しくてたまらなかったのである。
  月の夜、アラビア湾めがけてコルト三十八口径を、数発撃った。
 ラマは二十五口径で、弾が一発もなかったので使えなかった。
 この日、博教は、父・梅太郎に絵葉書を書いた。

アラビア石油の重役から
コルト三十八口径をもらって
石だらけのアラビア湾に裸足で入り
十五発ほど「ぶっぱなした」夜だったから
二十二歳のわたしは気持良く昂奮していた
父上様
今夜 アラビア湾の海岸にて
コルト三十八口径を試射しました
「月を美しいと眺めるのは東洋人だけだ」
何時か中村勝五郎さんが話しておられた言葉を
蒼い光を満身に浴びながら噛みしめました
                     クウェートにて 博教

 クウェートで52連発の軽機関銃トミー銃を本気で持ち帰ろうとしたが、どうしても手段が整わなかった。
 結局、博教は当初予定していた機関銃を諦め、アルマズーク氏からプレゼントされた、コルト38口径、ラマ22口径の2丁の拳銃を日本へ持ち帰ることにした。
  コルトは首から下げた紐にぶらさげ、ラマはズボンの尻のポケットに入れた。
 そんな簡単な偽装だった。

そして、博教は拳銃を日本に密輸したのである。

 拳銃商売

  当時の羽田空港は、税関を通る時スーツケースは開けられるが、ボディ・チェックはなく「何か危険な物持っていますか」と聞かれるだけだったのだ。
  長い旅路を終え、空港に迎えに来てくれた後藤清忠に土産を渡した。
 博教がポケットから取り出したのは、スペイン製のラマ二十二口径だった。
 後藤は、顔を青ざめ、驚愕した。
「俺の拳銃を見せようか」
 首から包帯を撚って作った紐で吊して来たコルト三十八口径を引き出して後藤に見せた。
「俺の拳銃」という言葉に博教は酔っていた。
 それは少年時代の「僕の刀」を越える陶酔感を博教にもたらせた。
  この持ち帰った二丁の拳銃を博教は、ラマ22口径を後藤に渡し、コルト38口径は、森田政治親分のところへ持っていった。
「親分、お土産です」と博教が渡すと、森田氏は、
「おまえ、凄い道具持っているな」と言って9万円のお金を渡した。
 博教は、こんなにお金になるのかと驚いた。

  拳銃が金になることがわかった博教と後藤は密輸ビジネスを考えた。
  当時、プレイボーイの後藤が付き合っていた女に、日比谷のクラブのホステス、亀松ケイ子が居た。
  彼女はエール・フランス機長の現地妻でもあった。
  二人は拳銃を密輸して、日本人に売り込んでいたが、大口の取引先を欲しがっていた。
  この男女と面識がない博教は、ばれる筈がないと渡りに船で、この話に乗った。
  そして、まんまと銃を手に入れることになった。
  今度は、ブローニングの38口径だった。
   新たな拳銃を手に入れ、味をしめた博教は、このルートを使えば拳銃は無限に手に入ることがわかった。

「この手があったのかって思ったよ。俺が現地に行く必要なんてないんだもん。それに俺は後藤を知っているけど、その女も機長も一切面識がないわけだから、例え、見つかっても後藤さえ口を割らなかったら永遠にバレることはないだろうって。金運大明神が目の前に見えたよ」

〈何かを撃ってみたい〉
 六本木三河台に後藤が借りている家があった。
 その家の二階のテレビの音量を最大にして、電話帳めがけてブローニング38口径の引き金を引いた。
  時ならぬ射撃音に、隣家のおやじが「大きな音が聞えましたが、大丈夫ですか……」と玄関のドアーを壊れるかと思うほど叩いた。
「びっくりさせて申し訳ございません。中古のテレビ買ったんですが、ブラウン管が破裂しました。掃除が済みましたらお詫びに上がります」
 博教は咄嗟の言い訳をした。
 心配を掛けた憐家のおやじに挨拶した数日後、後藤の運転するポンティヤックに乗って青山斎場の桜並木通りを走った。
  車の助手席の横の三角窓を開けると、その狭いすき開から、サイレンサー付ブローニング22口径の銃口を出し、等間隔に並んでいる桜の木めがけて次々と発砲した。
 オレンジ色の火箭が暗闇の中で花火のように綺麗だった。
「サイレンサーって言っても、かなりな音がするんだな」
「そうだね。オレンジ色の火が見えるなんて全然知らなかった」

「殿の映画のなかで銃撃戦の火花が散るシーンってあるだろ。あれを見ると、アラビア湾の月の夜と、この日の夜を思い出すんだよ。
 暴力なのに綺麗なんだよ、あれは詩だよな。たけしさんは映像の詩人だよ。尊敬するよ。なんであのひとは、あの美しさを知ってんだろうな」

                            つづく 

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