理想不足の我が国家
衆院選である。毎回、衆院選は無意味なレベルで開票速報を眺める。そして、思う。入れたいとこなどどこもない。何故なのか?とずっと考えていて、思った。
偉くて、賢い人の知恵の寄せ集めの政策集は、大概ポンコツな結論にしかならないからだ。
自民党総裁選の時の石破はキラキラしてた。何故なら、自分一人でああでもないこうでもないと考えて政策集を出していたからだ。
しかし、自民党総裁になり、総理大臣になると、野党が〜と野党の政権担当能力の事しか言わなくなった。有権者には、魅力が薄れたように見えた。だから、票が逃げたというのが考えられる。
自民党総裁になると、党内の意見を尊重しなければならない。そうなるとどうなるのか?他の偉い人の意見を取り入れるようになる。よって、政策の整合性が取れなくなり、自分一人で考えた論理的整合性の取れている政策があら不思議。誰もが言っているような、なんだきょくわからない抽象的なばら撒き政策集が早変わり。そうなると、もうお馴染みの野党ガーになる。
日本人は理念を軽視しがちである。理念というのは、進むべき方向性であり、社会哲学である。社会哲学には必ず長短を含んでいて、みんな綺麗事を並べるが、綺麗事の裏には隠れている暗部がある。
誰を救うのか?どんな社会にしたいのか?その理念の暮らしとはどういうものなのか?大凡において、やれ日の丸掲げる右派が正義だ、ポリティカルコレクトを世に広げる左派が正義だ。と、基本脳死。複雑なものを複雑のまま、それでも丁寧に熟慮して、最大多数の幸福と、少数の者への配慮を併せ持った各個人の幸福についての想定と、勤労者の血と汗で成り立つ税をどのような理念を実現すべきなのか?を議論していない。
例えば、日の丸を掲げ、ディープステイトと戦う者が愛国者であり、それ以外は国賊だ、みたいな政党もあるが、古今東西勇ましい売国奴は山のようにいる。人間が複雑な事を考えられないが故に、基本脳死で投票するにしろ、為政者は、そこを雑にしてはいけないのだ。
選挙になると、大凡、具体的な政策が持て囃される。だが、待って欲しい。政策を打ち出すには、社会理念がないと、どういう方向に社会をするべきか?という方向性が決められない。自民党や立憲民主党がなにがしたいのか全くよくわからない。
今一度、社会理念を見つめ直すべきである。夢、希望を失い必死に現状維持をしようとして溺れる我が国民に、どう道しるべを打ち立てるべきなのか?よく考えないといけない。
私は、ぼんやりとだが、見えているものがある。近々、それを纏めて皆様に公表するつもりである。希望を失うと、過去に生きるようになる。現状は非常に厳しい。人間の、業は深い。欠落した各個人人間の、それでも光を照らす道しるべを打ち立てなければならない。