花子の一生
第一章「さくらんぼに起きた悲劇」
#創作大賞2023
#オールカデゴリー
#自由
#生きる為に1番大切な事
#愛
花子が3歳、父方の実家にいた時の事だ。
近所の雑貨屋へ買い物に行こうと、チャ子は花子を自転車の後ろに乗せた。
道路の舗装も滑らかなではなかった為に、ひとたびガタガタ道を通過したなら、小さな花子の体に電流が走った。
サクランボみたいに小さくブラブラした足をチョンと乗せる所もなく、行き場を失ったサクランボはタイヤの中に吸い込まれていった。
カラカラと音をたてながら、それでも止まる事のない自転車に、幼い花子は、その痛みという真っ暗なトンネルからなんとか抜け出そうと後部席で必死にもがいていた。
すると、チャ子が大きな声で言った。
「ちょっと!静かに座っとき!落ち着きのない子やわぁ、ギョウ虫でもいるんちゃうかぁ」
ギョウ虫。
幼い花子にはそれが何か分からなかったが、痛みを堪えながら心の中で叫んでいた。
3歳の可愛いサクランボがタイヤに絡まっていますよ!
ギョウ虫が何か分からんけど、わたち(私)のあんよ(足)はグニャグニャしてきましたよぉ〜!と、チャ子に叫んでいたのだ。
チャ子が花子の異変に気づくまでに、一体、どのくらい時間が経ったのか。
キキーッと金切り声のようなブレーキ音を鳴らしながらチャ子はようやく止まった。
が、後ろを振り向いたチャ子の形相に花子は驚いた。
片足で自転車を支えながら振り返ったチャ子の形相が、まるで般若の面、そのものだった。
花子の祖父は教員上がりの書道家で、小さなアトリエを持っていた。
そこには、お能の面がたくさん飾られていて、小さい花子はそこが結界に感じられ、怖くて近寄る事が出来なかった。
それを知っていた家族は悪さをすると「アトリエに入れるで!」と、花子をよく驚かした。
チャ子の想定外の対応に、花子は唖然とし、同時に腹が立った。
「私は悪くないのに」そう、心の中で叫んでいた。
それを、声に出す勇気はなかったが、顔には出ていたのだろう。
チャ子は容赦なかった。
タイヤに絡まっている可愛いサクランボを見る前に小さな花子の頭にゲンコツを入れた。
サクランボの痛みを、感じなくなる程の衝撃で、その痛みを一瞬でも忘れさせてくれたチャ子に花子はなぜか感謝した。
それが、花子なのだ。
ところが、花子の錦糸卵のような目から、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなった。
おそらく、再び顔を出したサクランボの痛みと、チャ子が異変に気付いてくれた事への安堵感からなのだろう。
花子の涙に驚いたチャ子の顔から、般若の面が取れた。
これから花子が生きて行く上で、その面が取れる瞬間を幾度となく見る事となる。
大人は不思議な生き物だ。
大声をあげて泣き叫ぶ子供には厳しい。だが、静かに泣く子供には優しいのだ。
花子は3歳という若さで、人生の機微を感じた。
そして、その経験は、花子がこれから成長する過程でたいへん役に立つ事となる。
「花ちゃん、どぉないしたん?なんで泣いてぇんの?どこか痛いんか?」
チャ子は優しく花子に問うた。
チャ子が花子を、ちゃん付けで呼んだのは初めての事だった。
味をしめた花子は調子に乗り、こう言った。
「あんよがな、痛いねぇん。でもなぁ、ピンクのラムネ食べたら治るかもやねぇん」
驚いたチャ子は、即座に花子の足元を見た。
小さな花子の足が大きな車輪に絡みつき、北と南に向いていた。
チャ子は、天をも突き上げるような悲鳴をあげた。
すると、その声に驚いた、通りすがりの人達が一斉にチャ子の方に目をやった。
あたふたしているチャ子の方へ、一人の男性が駆け寄って来た。そして、即座に状況を把握した男性は、花子を安心させる為に何とも優しい笑顔でこう言った。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「花子」
照れながら、そう答えた花子は何故かキュンとなり二度目の痛みを忘れた。
このキュンは花子にとっての初恋だった。むろん、親ほど年の離れたこの男性との恋は成就する訳もなく、花子の人生において、夥しい数の悲恋を経験する事など、幼い花子には知る由もなかった。
「じゃあ、おじさんは花ちゃんって呼ぼう。花ちゃん、今、おじさんが絡まった足を痛くないようにとってあげるから、頑張るんだよ」
いつの間にか集まった野次馬も固唾を飲んで見守っていた。
その男性は丁寧にタイヤに絡まった花子の可愛いサクランボを外してくれ、チャ子に小声で言った。
「お母さん、骨折はしていないと思いますが、捻挫はしていると思います。私の祖父がこの先の3丁目で整形外科医をしていますから、すぐに診て貰って下さい。僕の方から連絡を入れておきますから。祖父は口こそ悪いですが、見立ては確かです」
男性はそう言った後、花子の頭を優しく撫でた。
「花ちゃん、よく痛いのを我慢したね、偉かったよ。もう大丈夫だからね。その先に痛いのを治すおじいちゃんがいるから診て貰っておいで」
花子は男性のその笑顔に二度目のキュンを味わい、3度目の痛みを忘れた。
花子は幼いながらも、この男性が医者の事を、おじいちゃんと言ってくれた優しさを理解していた。
立ち去る男性にチャ子は何度もお辞儀をし、野次馬も去って行った。
その後、チャ子は教えてもらった整形外科へ急いで向かった。
花子が処置をしている合間、チャ子は事訳を説明する為、公衆電話から自宅へと連絡を入れた。
そして、花子を再び自転車に乗せて帰宅した時には、既に夕焼けが二人をオレンジ色に染めていた。
二人が帰宅すると、最初に駆け寄って来たのはチャ子の母親の愛子だった。
愛子は父方の祖母である久子に連絡を貰い、30分かけて隣街からタクシーをとばして駆けつけてくれていた。
「愛ちゃん」
「花ちゃん」
愛子は目に涙を薄っすらためて花子を抱き閉めた。
「花ちゃん、痛かったやろうぉ?なぁ、よう頑張ったなぁ。ご褒美に愛ちゃんが花ちゃんの好きな物を何でも買うたるさかいなぁ」そう言って愛子は豊満な乳に花子を埋めた。
チャ子も大概豊満な乳を纏っていたが、それとは違い、愛子の乳には愛が詰まっていると、花子はそのとき感じた。
「愛ちゃん、ありがとう。花ちゃんもう大丈夫やで。もう痛くないし。せやけどお医者さんが言いはったわ。ピンクのラムネ食べたらもっと早く治るって!」
花子、初めての嘘だった。すると、チャ子は間髪おかずこう言った。
「アホか!先生はそんな事、言うてないわ!」
チャ子が花子を叱咤すると、愛子はチャ子を睨みながら、きつい口調でこう言った。
アホはあんたや!こんな小さい子を、あんな足置きも無い、古臭いボロボロの自転車に乗せてからに!一番のドアホはあんたや!しかも、タイヤに花子の足が絡まっている事に気づきもせんと母親失格のドアホや!」
堰を切ったように怒りをあらわにした愛子に、チャ子は勿論、周囲にいた花子の父、政夫や祖母の久子も困惑していた。
古臭い。ボロボロ。
この家の所有物を愛子は躊躇なくディスった。
そして、誰よりも困窮していたのは自転車の持ち主であり、その古臭くボロボロの自転車を愛用していた父方の祖父、隆二だった。
隆二は申し訳なさそうに頭部の二割ほどしかない細い毛を撫でながら愛子に頭を下げ、こう言った。
「ほんま、わしがもっとマシな自転車に乗っていたら、花子に怪我させる事もなかったんですわぁ。ほんま、すんません」そう言って何度も頭を下げた。
隆二の詫びる姿に、我に返った愛子もまた、申し訳なささそうに頭を下げた。
自分の怪我など、いつかは治る。けれど、両家の間に一度入ったヒビは完全に修復しない事を花子は知っていた。
なぜなら、毎日のようにチャ子と見ていた昼ドラは、お家騒動がテーマとなっており、それを見ていた花子は身内の間に綻びが生じること程、厄介なものはないと学んでいたのだ。
ギクシャクした中で、お互いに愛想笑いをしている両家の間の絡まった糸が花子には、はっきりと見えていた。
小さな子供には幽霊も見えるというのだから、複雑に絡み合った人情の機微なを知ることなど安易だ。
花子の小さなサクランボのくるぶしについた傷は大人になっても消える事はなく、なぞるたびに昔を懐かしんだ。
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