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色々書いてみて、様々な文章について考える(自戒含めて)

偏る。色々な方向に思考を引っ張られる。

最近影響されたのは「文字数」だ。
似たものだけれど「ひねりだそうとしてひとつひとつの物事を丁寧に解説していないか」もそうだ。

書いたものがおもしろくないのだ。
noteは自炊なので別としてぇ……。(うわぁ、いいわけ!)
おいしくないと思っている料理を出すレストランになりたくない。
おもしろいか、おもしろくないかも質による気がする。

読み手の自分がおもしろいと思って書いていれば、それはたぶんおもしろいものなんだと思う。
書きたいことを書いておもしろいと思って書いていれば、ちょっと待った待っただと思う。いや、自分の欲望のために書く日記は私も書いている。

正に「読みたいことを、書けばいい。」と感じた。
おもしろさのベクトル?

私は長い文章を読みたいかと聞かれればそうではない。
何の意味も為さない説明文を永遠と読まされるのは苦痛だ。つまらない。
お手軽に楽しみたい。学びたい。おもしろいものはたくさん読みたい。

クラウドソーシングで3000文字で書いてください、5000文字で書いてくださいとご提示いただき、試行錯誤しながらプロットを作って、その枠に文章を当てはめていく。
そう、「枠にあてはめていく」という感覚。
それは「よみやすさ」「わかりやすさ」「書きやすさ」のためで、とてもいいと感じる。
地図を準備して、ゴールを準備して、その中で思い切り自由に冒険できる。
オープンワールドゲームをプレイする時の感覚に似ている。

ただ、頭で考え、道をまっすぐ進もうとした時、創造性は死ぬと感じた。
「こうしよう」「こう書こう」としたものがつまらないのだ。
レールにそった人生を疑問視してしまう方の人間だ。
枠をはみ出しながら、「おっとっと」と軌道修正してギリギリ道にのっている……たまに逸れるぐらいでいいんじゃないか。令和ですしおすし。

「書かなければならない」と向かい合った時、「ひねりだそうとする」と、
「説明しなければならない」と説明文を書き始める。

待った待っただ。そんなもの読みたくない。
説明書の文章を読んで、おもしろい文章だな、なんて、誤翻訳にクスリと笑う程度のことで、そんなに興味ないのだ。
有名人でもなければ、稀有な人生を生きてきたわけでもないので、この人の話はためになる……ともならない……かなしい。疑問視だらけだと思う。

日常生活をこと細かに記述するだけで丁寧な描写になる。
文学作品は大好きだ。その情景を頭に描いて芸術空間に酔いしれる。美しすぎる。一人脳内美術館だ。それは書き手と読み手が生み出すハーモニー。「ほう…」とためいきをついて、頭をかかえる。
そこにオリジナリティあふれる誰しもがイメージできるビターッとはまる気の利いたことを書くことができれば最高だと思う。

「で?」
その時間はなんだったんだろう?
もしその描写が後に活きてくるものであれば、必要だ。
そもそもその美術の連続を楽しむ作品であれば、それでいいし最高だと思う。
ただ、「なんとなく書いた」だと「ラーメン食べに来たのに漬物でてきた? マリアージュしないね?」となってしまう。
でもミクスチャーでおもしろい料理になるかもしれないじゃん? 醤?
創作料理ってでも元気なチャレンジャーの時じゃないと抵抗あるよね…。

問題は、ニーズにより活きる文か、死ぬ文かだと感じた。
私はよく「死ぬ文」を書く。なんの意味もなさない文だ。
後から読み返して段落ごと削除してしまえばいい。この文もそうだ。
浮かんでは消えていく言葉を、指でタイプしただけだ。

ただ、うまいこと書いたから未練はある。
もしかすると「うまいこと書いてる」と唸ってくれて、続きを読んでくれるかもしれない。
何が没入トリガーとなるのかは、わからない。
私はいま「やね斜裏」ひとりの人間分(にんげんぶん)程度しかわからない。

この場合、没入トリガーの定義として、
「この文章の続きがどうしても気になる」というものとする。
私の没入トリガーは「心からの共感」「気づき・驚き」「疑問・疑惑」「憧れ・蔑み」「関心・興味・学び」などだと思う。他にもある気がする。

「心からの共感」は「これは私の話だ」。
私が文章を書くにあたって、実は今までで一番参考になったものは
「本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む」だ。

感想として「感激した」「勉強になった」というような本ではない気がする。それでも私は感激したし、勉強になった。
「人が何かを読む」ことのハードルの高さと、「読み始めて感動する」ことの動きが、ありありと描かれている。
一行一行立ち止まって、情景を説明してくれる。登場人物を演じてくれる。
こんなに読書を楽しんでくれる人が間違いなくいる。
それは、感動を通り越して……絶望でもある。
適当なことを書いてがっかりさせたくない。放り出されたくない。

この本は私が何かを書くにあたってバイブルになる、と確信している。
「楽しむ読者」がここにいる、といつでも教えてくれる。
こんな人を私は裏切りたくない。一緒に楽しみたい。
この本自体にエンタメがこれでもかとギュッと詰まっている。

かといって、客観性も創造力を殺すと感じている。

これも正に「客観性は大切だ。けれども客観性はクソだ」だ。


様々な「書く」をしてみて、応用できるものは間違いなくあり、応用できない部分に引っ張られてしまうことが間違いなくある。

何を書くにしても続きがよみたくなる没入できる「おもしろい文章」が書きたい。つまらない、読むのがおもしろくない文章は書きたくない。

長くなればなるだけ離脱率があがる、というものもわかる。
「うわ、ここの文章つまらないな、でももう少し読んだらおもしろくなってくるかも」とがんばって読むことは割とある。
それが「まだかな、まだかな」とがんばって読むのを続けて、「明日にしよう」と栞をはさんで布団に入って眠ってしまうと、つぎに読み始める時にハードルが上がる。

できれば「おもしろくて続きが気になってしまう! 寝なきゃ、寝なきゃ…」と惜しまれながら寝てほしい。

かっこよくかけなくてもいい、整然とかけなくてもいい。
体裁を整えて、それっぽく書けなくてもいい。

そんなことより、おもしろいか、続きを読みたいか。
そういうものを書けたらいいな、と思った。
その上で、かっこよく、整然と、わかりやすく、読みやすいものが書ければいい。わたしはわかりやすく入りやすいおもしろいものを書きたい。
アートと似たものを感じる。

学ぶと学ぶだけ頭でっかちになる。
遊びを忘れてしまう。そんなものがおもしろいのか疑問がある。

どんなものでも「読ませる文章」を書けるようになりたいと感じた。
忘れてしまいそうになるマインドをいつでも思い出せるようにしておきたい。
自戒。


自炊飯、今日は「かため」のごはんになりました。

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やね斜裏
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