依存心の善悪と、執着と、永遠の荷物整理

「依存心」ってなんだろう。
私が割と常に気にかけている人生の課題だと思う。
それは「依存」か「真実の好き(愛)」か。
「真実の愛」なんていうと、途端に私も「うわぁ」と辟易してしまう。

きっともっと種類はあると思う。
「情」「恩」「義理」「見栄」etc…

暴論だけれど、私はそもそも「永遠の愛」という言葉はよくないんじゃないかと思っている。
エターナルラブ、フォーエバーラブ、口にするのちょっと躊躇うし、窮屈な印象がある。
それは呪いにもなりえない? 
(ああ、私の中の乙骨憂太が「失礼だな、純愛だよ」って言ってる…)
人はうつろい、たゆたうものだと思う。
「刹那、その場で」は、間違いない思いだからいいのかもしれない。
「あの時は真実で、永遠だった」それもアリだと思う。
「他者の感じる無責任さ」って「それってあなたの感想ですよね?」になると思っている。
だからこそ憧れて、永遠でなくともいいのでは?と歪んで(バイアスで)願ってしまっているのかもしれない。

一時期、私は現実も心も極端な自己流ミニマリスト的になって、
「無駄」と思われるものを排除するように生きたことがある。
その自分での線引きはとても難しく、必要なもの(こんまりさんで言うと「ときめくもの」)まで切り捨ててきてしまった。

「欲しいもの=無駄なもの」
「欲しいもの=お金が減るもの」
「欲しいもの=部屋のスペースが減り散らかるもの」
「欲しいもの=無駄な時間を使うもの」
「捨てられない物=依存心」
「希薄な人間関係=不要なもの」
「上辺の付き合い=不要なもの」
「バカにしてくる人=不要なもの」
「あわない友人=不要なもの」
「だらだら意味なく続く会話=不要なもの」

性格なのかわからないけれど、
良くも悪くも、今でも明らかに嫌悪感のあるものは
ドライにバッサリ切ることができてしまう。
自分のためにも相手のためにもなると本気で思っている。
自分の中の「好き」に忠実なのも困りものだ。

当時、私には
「とりあえず雨風をしのげる場所」
「とりあえず食料」
「とりあえずシャワー」
「とりあえず柔らかい寝床」があれば、なんとかなってしまった。
真面目でビビりな性格がたたって、最低限の社会保障は欲しいので、そのへんも整えて。

今まで8回引っ越しして、そのたびに何かをリセットしていた。
(兵庫⇒大阪(十三)⇒東京(六町)⇒仙台(うち2週間ホテル暮らし)⇒大阪(日本橋)⇒大阪(天王寺)⇒仙台(国見)⇒仙台(宮城野)⇒広島(うち1ヵ月岡山でホテル暮らし))
この身に、この脳に思い出があり、
形がなければ忘れてしまうものは、結局その程度なのかもしれないと思っていた。いや、今もまだ少し思っているところがある気がする。
人間関係も、物も、事も、その時、その刹那、輝いていたもの。
その自分にとっての大小は、無意識に自分が自分の中に刻み付けているものと。

毎日何十回とそれを自分に問うて、抑えつけて、
誤解を恐れずに言うと、
「欲望を捨てろ、合理的であれ」と
何度も何度も言い聞かせたような感覚だ。
「そんなもの無駄だ」
「私には贅沢すぎる」
「またどうせいつか手放す」
「墓には持って入れない」
たぶん、3年前。38歳で終活をしていたんだと思う。
たしかに自分で「あとは老後みたいなもんだから」と言っていた。
その結果、自分がわからなくなってしまっていたのだと思う。

愚かにも、どんどん空しくなった。
人間を人間たらしめる欲望を、排除しようとした。
じゃあ本当に必要なものは何だ?
このまま生命活動を維持して、「何がしたい」んだ?
この鼓動は、何のためにここにあるんだ?
母が続けられなかった、この後の世界を、
私は「いつか死ぬ」ために「我慢して切り捨てて生きる」のか?
じゃあ今死ね。
いいや、私は「人生を楽しむ」という大きな目標がある。

それは、つまり、
毎日「愚かさ、無駄を楽しむ」ことなんじゃないか?
「生命維持」「鼓動」は尊いかもしれない。
なんのためって、
私は【「人生」は「楽しい」】と定義してしまったんだから、
「いのち大事に」は「人生は暇つぶし」】。
「無駄で愚かなおしゃべり」って、「人生の目的」なのかもしれない。
「推し活」って、「命をかけてやること」なのかもしれない。
それって「すごく生きてる」と私は思う。
誰かにとっての壮大な意味なんてなくていい。
とってもエゴイストだけれど、
その先に「誰か」いて、一人の人生を変えてる気がする。
それってすごく社会貢献だ。
そもそも、社会貢献しなくても、「楽しい」は生きてる。
自分が楽しいだけで「社会貢献」だ。自分も社会の一部だ。


今思えば、この期間、謎の修行だったのでは…?
ブッダの「禁欲」的な。
私のは「抑圧」で、呪われし道、感がすごいけど。

哲学、心理学として仏教を見ると、
とてもおもしろいなぁと思う。
下記は仏教の「愛別離苦(あいべつりく)」についてのコラム。

解決策として、愛することをしない、自我を殺す、他人との人間関係を断つことはちがいます。世捨て人になれば人間関係の苦しみが生まれないので仏教に適う、とは間違った論理です。
「だれかがわたしを見ているかは関係なく、わたしの行いをわたしが見る」、まずは自立です。「愛する人」がどのような人だったか語るだけではなく、「愛する」について考えてみる、語ってみることではないか。
たとえば「愛する人」にたいし、どのような言葉をかけるかを考える。愛語といいます。
慈しみの言葉をかけるとしたら。
あわれみの言葉をかけるとしたら。
ともによろこぶ言葉をかけるとしたら。
短所と向き合い、とらわれのないこころに触れるような言葉をかけるとしたら。
愛別離苦の愛するとは、渇愛ではなく、大切にするという意味です。
なぜ大切なひとになったのか。それだけの出会いがなければ、ただの他者が大切なひと、愛する人にはなりえない。
別れ離れる苦しさや悲しさ。ひとは相手の他者の悲しみを完全に理解することはできない。まして本人にすら、なぜ自分が泣くのか悲しみを理解できない。
しかし、思うことはできる。思うよりも深く、胸の奥で「念じる」ことができる。親がこどもの無事を念じる。子が親と同じ年齢になって思慕する。あの人だったらどうしたかと念ずる。
人という生き物は、頼まれていないのに大切なひとのためになにかをしたいと考えます。ときには「しない」ことをするときもある。会わないことも愛することです。そのとき、会わない相手を胸の奥で思っているのは間違いありません。見えない相手に声をかけている。人がだれかを念じるとき、ままならない苦しみを自分自身で癒しているのかもしれません。
「かの人のことをむねの奥で思い、ことばをかける(愛語)」ことをおすすめいたします。

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「自己満足」「エゴ」と言われれば、そうなんだと思う。
でも、その人が「想ってくれる」のは真実だ。
結局、「自分がどうあったか」は、
誰かにも、自分にも、優しいと思う。

私は小学生の頃は物が片づけられず、
よく物をなくしては泣いていた。
まあ小さい頃なんてそんなもんだろうけれど、
くだらないぬいぐるみ一つ、
それも明日には飽きられてしまうものが、間違いなく勇気と安心をくれた。

私は今までたくさんのものを捨ててきた。
けれど、
最近は、遠い友人との思い出の品も捨てずにとってあるものもある。
人間、覚えておきたいことも忘れてしまう。特に私は忘れっぽい。
見れば思い出して、嬉しい気持ちになれる。
たとえ、大切な友人が忘れていても、「思い出」を大事にする。
相手の思いがどうだとか関係ない。
自己中心的に、ただ私が大事にするだけだ。自分勝手に。
そんな大事なことを、忘れていた。
相手も人間で、うつろい、たゆたう。
ずっと同じ思いではいられない。
自分が「大切に思っている」それだけでいい。
報われない? 十分に自分で報いている。その想いが嘘でなければ。
それはきっと「愛」と呼ぶんだろう。たぶん「依存」じゃないと思う。

そして、「無駄な日常」だ「嫌な思い出」だと思っていたものが、
かけがえない幸福な時間だったなんてざらにある。
もっと、この「毎日の暇つぶし」を愛していいと思う。

下らないお気に入りの石ころひとつを大切に保管してタンスに眠らせていいと思う。それは「人生の目的」だ。

「依存心」は善でも悪でもない。


依存心は時には悪になる。
「悲劇の主役」であることに依存してしまうのは「悪」だと思う。
「かわいそう」「大変だったね」そういわれるため、
「注目して」「私って本当にかわいそう」と、自分をかわいそう、かわいそう、と思い込むのは、負の連鎖だ。

依存心は時には善になる。
「愛」と「依存心」がないまぜになって、
自分でもよくわからなくなっている状態の人が、
継続するパワー、執着としてものすごい力を発揮することがある。
それは悪魔的、妄信的な力で、ドロドロした健全ではないものかもしれないけれど、普通では考えられない何かを成し遂げる。

タイトルは「依存心の善悪と、執着と、永遠の荷物整理」としたけれど、
私は一時期、「依存心」を「悪」と決めて、
身の回りの様々なものを手放してしまった。
「負」の執着はたしかに整理した方がいいと思う。
つらいことから目を背けるという意味ではなく、「重い鎖」にとらわれないように。
「正」の執着は、「自分のため」にとっておく。
それは「力」で「ときめき」なのかな、と思う。
時々嫌になるかもしれない、でも「渇望した」希望だったら。
手放すのは、少しもったいない。
いや、手放しても、また手に入れればいいんだけどね。

取捨選択は永遠に続いていって、終わりはない。
選んで、選んで、選んで、選んだものが周りにある。
その中には、依存と執着にまみれた黒いオーラを持ってるものもあるかもしれない。
「自分のために想う」ことができるものなら、多分、整理してはいけない。
それは「人生の目的」そのものだから。

「墓に持って入れないから」という理由は、
「死ぬために生きる」ようなものだと思ってしまう。

「永遠の愛」じゃなくて、「刹那の愛」でいいじゃない、と
やっぱりちょっと思ってしまう。
そして、やっぱり自分で暴論だと思う。


命の使い方は人の数だけある。


私はやっぱりどんな「好き」でも、
「生きる」希望であって欲しいと思ってしまう。
自分が「想う」ことができる。
自分が「大切に思っている」それだけでいい。
そうかな、と思っている。






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