拝啓、未来は見えず、夢ばかり見ている私へ。
こんにちは。
こうして手紙を書くのは何度目でしょうか。
3度目? 4度目かもしれません。
いつも愛おしく、大切に思っているにも関わらず、なかなか対話することができておらず申し訳ないです。
たくさんお話がしたいと思っています。
あなたから私へ話しかけることはできませんし、私の声も届きません。
あなたがしてきたことを、ただ肯定することだけしかできません。
私はあなたを尊敬しています。
曲がったことが苦手で、自分にも嘘をつきたくなくて。
やりたい放題で、めちゃくちゃな人生ですね。
でも、とても私らしく、いつも夢と希望に溢れていて、今度は何をするんだろうとわくわくしてしまいます。
楽しそうなあなたが好きです。これからも笑っていて欲しいと思います。
「これから」の参考になればと、今までのあなたを少し振り返ってみます。
幼稚園の頃。
あなたは魔法使いになりたかったですね。
きれいな葉っぱを拾ってポケットにねじこんで、大切な魔法がかかったものだと信じていた。
そしてその頃から、「これは誰にも理解してもらえないものだ」と感じていましたね。
それでも、幼稚園の卒園アルバムの表紙に「いばら姫」のいばらに覆われたお城を表紙いっぱいに描きました。
精神科医の方が見たら「この子の心は棘と闇で覆われている」なんて言ったかもしれません。
そうじゃなくて、その「発想」が好きだったんですよね。
眠るお姫様ではなく、騎士の王子様でもなく、キスでもない。
魔女の「糸車の針を毒針にする」「お城をいばらで覆う」という発想に「すごい! すごい!」とわくわくしたんですよね。
あの頃は「マレフィセント」なんて言葉も知りませんでした。
後から知ったマレフィセントは思っていた姿とかなり違いましたが、それでも大好きで今も鍵にキーホルダーをつけています。
幼稚園の頃から中二病を発症していたなんて、我ながら頼もしく誇らしいです。
あと、忘れてはいけないのが「魔法使いサリー」ですね。
あなたは本当に「魔法」を夢見ていましたね。私も、大好きです。
小学生の頃。
喘息とアトピーでつらかったですね。
体中がずるずるで、肌が汚かった。服を着れば浸出液ではりついて、服を脱げばかさぶたも一緒に剥がれて、その痛みが恐怖だった。
白いブラウスが血で汚れて、見せないように必死だった。
眠るときに手に靴下をかぶせられるのも大嫌いだった。
かゆくて、痛くて、醜くて、人と違って、誰もわかってくれない気がして、つらかった。
喘息もひどく、入院もしましたね。小学校での思い出が少ないのは、そのせいだと思います。
血のシミがたくさんついていたけれど、フリルのついたピエロのパジャマがお気に入りでしたね。
病院で隣で寝ている女の子が手を怪我していて、足で絵を描いていることに本当に感動しました。あなたより少しお姉さんだったように思います。
画家とはきっとこういう子がなるのだ、と思いましたね。
その頃、自覚はなかったと思うのですが、あなたはおそらく人生に絶望していました。明るい未来が全く見えませんでしたね。
お化粧にも憧れたけれど、アトピー肌で荒れに荒れて、ぶつぶつの顔、血まみれの両腕、両足、指、爪に絶望する。
ましな日は今度は呼吸が苦しく、ゼイゼイ、ヒューヒュー。吸入器で落ち着かせては病院で点滴をうけて生きることに絶望する。
呼吸が苦しいから、会話も少なくなる。空気を読んで、微笑んで、最低限の会話だけをするようになった。ネット弁慶とも呼ばれる「書く」が得意になったのは、喘息のせいだったのかもしれません。
そんな中、小学校で「夢」を書きましょうと言われ、全く何も思い浮かばず、みんなと同じ「保母さん」と答えましたね。
全くなりたいと思っていない、それどころかどんなものなのかもよくわかっていないのに、「みんなと一緒になりたかった」「希望をもつ人は、保母さんになりたいものなのか」と思ったのかもしれませんね。なりたい未来なんて考えられなかったはずです。
小学校4年生の頃、母が癌で亡くなりましたね。
部屋を散らかして怒られた時に「お母さんなんて死んじゃえ」と心の中で思ったからかもしれない、と妄想しましたね。
そんなことないですよ。あなたは母を愛していました。
だって彼女は「魔法使いサリー」そのものだったんですから。
人生に絶望して、未来が全く見えなかったですね。
私もきっと、その時に戻れば、その場の小さい現実に立ち向かうのに精いっぱいだと思います。
本当に、つらかったですね。
短大生の頃。
アトピーと喘息が小児時期だけのものだったようで、だんだん落ち着いてきましたね。
精神的にも大人になって、やっと自分をこの広い世界で生きる一人の人間として認識しはじめてきた頃だったと思います。
哲学の授業は人生を、未来を変えてくれましたね。本田先生には心から感謝しています。宗教学のシスターのことも大好きでしたね。
それまで「哲学」というものが何なのかもわかっていませんでした。
「自分という存在や頭や心の深い部分、そんなことを考える自分はおかしいのだ」と思っていましたね。
やっと「この世界で普通の自分」をいうものを認識できたのではないでしょうか。それは心からの喜びでしたね。
だからきっと嬉しくて、哲学のレポートをたくさん書いて、「こんなことを考えていても、私は普通でした」と言いたかったんだと思います。
先生はびっくりしたと思います。でも、「先生」だから受け止めてくれたんだと思います。
母、姉の母校というだけで何の意思もなく小さな世界で選んでしまった学校(未来)でしたが、本田先生との出会いがなければ私は違う人生を歩んでいたと思います。
もしかすると今でも「自分はおかしい」「自分は特別」と間違っていたかもしれません。
それは「未来」でも「夢」でもなく、「偶然」と書いて運命と読むのかなと思います。
それも間違いなく、私のかけがえのない一部です。
好きだったキャラクターショップに入社した頃。
憧れで夢だった会社に入社しましたね。本当に誇らしいです。
毎日なりふり構わず、とはいえ職場での友好関係を保ち、仲間を尊敬しながら、愛をもって働いていました。
冷静さには欠けていましたが、とても情熱的でした。20代なんてそんなものでいいと思います。
私が人の「好き」を尊敬するようになったのはその頃からかもしれません。
人の「好き」は人の「夢」を聞くことでもあると思っています。
その瞳はきらきらと輝いていて、希望に溢れています。
私は日常的にその「きらきら」と触れ合っていました。
作品が好きなスタッフ、作品が好きなお客様、作品が好きなアーティスト。
毎日必ず3つぐらいはきらきら輝いた瞳を見て愛をわけてもらった気がします。
それは誇張なく「生き甲斐」であることも伝わってきていました。
「夢」を見る人が好きです。
「この幸せな瞬間がずっと続けばいい」という「今現在の幸せ」にも注目していた気がします。
「確かな未来」ではなく、ずっと「今の幸せが続いたその先の、想像できない未来」を夢見ていた、ともいえるのかもしれません。
自分のお店をはじめた頃。
28歳でしたね。本当に若くて多くの未来があるのに、よくぞ「死ぬときにやりたかったなぁと後悔すること」をここでやったものだと唸ってしまいます。
それはもしかすると、40歳で死んだ母がいたからかもしれません。
語弊を恐れずに言うと、「母の死」すら活かしてしまったのかもしれません。「私も40歳が寿命かもしれない」と思ったのではないでしょうか。
小学生の頃に喘息やアトピーで「死」を連想しました。自分が長寿になるとは思えません。短い期間でも命を燃やし切りたいです。
メメントモリは、今でも心の片隅に置いています。
おかげでピロリ菌健診、乳がん検診、子宮頸がん検診、胃カメラを積極的に受ける「安心大好き人間」になりました。
とはいえ私が生きる理由は「この世の楽しいものを接種しつくしたい」という不純なものです。
自分のお店をはじめたのも、その一環です。
大義もありますが、私が楽しいという打算なしで大義だけ掲げるには私は小さい人間でした。
お店をはじめてから、初めて「この社会の未来」を見ようとした気がします。自分の命より継続して欲しい未来が見えたような気がします。
キャラクターコンテンツ、アート作品をはじめてから「好きな業界にいたい」から「この世界にはすごい感性をもっている方がたくさんいる、広げ、伝え、引き継がれなければならない」と感じ始めたように思います。
老後も好きなコンテンツを楽しみ続けたいです(死後も…といいたいところですが、天国にテレビゲームやお人形があるかどうか…?)
ひとつの「ブレず一貫した夢」が叶ったからかもしれません。
15年ほど前は今ほどインターネットが普及しておらず、「すごい人」が埋もれがちでした。この世界には「創作しようとしている人」が多くいるにも関わらず、露出する場面が少なかったのです。
(「現実(リアル)」にもこだわりがありました。
「生でないと、目で見て、触れて、感じなければ、味わいつくせないものがある」と今でも思っています)
(もちろんゲームも好きですし、バーチャル、3DCGなども大好きです)
「2店舗目、海外店舗、代理購入店、オリジナル作品、交流会、異文化ミックス、アート系SNS」様々な未来が頭をめぐりました。
いずれもかなわず、結局10年で、お店は閉業しました。
これは「想像していなかった未来」でした。
また人生に絶望しましたね。私が悪かったし、これで良かったと思います。
私は萎縮していました。プレッシャーもありました。そして自責していましたね。何も悪いことをしていないのに。
パートナーと付き合い始めた頃。
あなたは恋愛が苦手でしたね。
勘違いや激情をぶつけるものだと軽視していました。
その反面、その裏に「魔法」を夢見ていたのではないでしょうか。
あなたは、愛はもろく、うつろうものだと決めました。
そうであって欲しくないけれど、そうなのだと、無理やり決めました。
そうしなければ、父が義母の指示で母のお墓参りにいかないこと、子の私たちと20年連絡をとらないこと、駆け落ちした姉が離婚したこと、バイト先で信じていた同僚が後輩とつきあって堕胎させ、同僚は浮気していたこと、それらを説明するのが難しいからです。
もっと言うと「愛」「恋」はマジョリティの権力をもった「正義の言い訳ことば」のようにすら感じていました。
振りかざせば間違いを無理やり理解させられるような、卑怯な言葉とすら思っていた気がします。
だから、信じていなかった。継続することで勘違いやその場の激情だったと後悔するようなものだと思っていました。
パートナーははじめ、あなたが感じる中でもっとも愚かな「激情型の勘違いヤロー」でした。今その頃の自分の思考や相手の行動を振り返っても、やはりそう思う気がします。
そしてそれは、あなたにとって「魔法」でしたね。
99%「愚かさ」で、1%「魔法」を信じたいと思ったんじゃないでしょうか。
あまりにも必死で、あまりにも絶望的でした。地獄の淵から蘇ったような気迫…いいえ、おそらく本人にとっては本当にそうなのだと思うのですが…「愚かすぎるにも程がある」から、その「程ゲージ99%」を突破してしまってなんだか「魔法1%」に到達したような、そんな気がします。
付き合いはじめる3日前までのあなたに伝えると、本当に驚くと思います。
私は「恋愛」を知りました。「20年ほどぶりの家族」のように感じています。
人と関わるということは、自分の意思外の影響を受けます。
これは本当に「想像していなかった未来」です。想像していたとしたら…すら想像がつきません。
天地がひっくり返ったのと同じぐらい想像がつかないと思います。
もしかすると今後パートナーと別れる日がくるのかもしれません。
その時、未来の私が何を思うのか、想像もつきません。
自分を生きようと思った頃。
あなたは本当に「好きなものに一生懸命な人が好き」ですね。
自分がそうだから、仲間が欲しい、その自分の衝動と共鳴してくれる人を探しているのかもしれません。
私はもう「ブレず一貫した夢」は叶えました。おめでとうございます。
もう死ぬ前に後悔する心配はありません。
今から一緒に、10年後にそう言える「想像していなかった未来」を積み上げましょう。
それは小さくてもエンタメ世界の礎になり、誰かを喜ばせ、繋がって、またそこから発展して、想像もできない未来が出来上がって、もっとわくわくして、楽しくて、素敵なものになると思います。
微力でエゴかもしれませんが、そうやって生きたいです。
やりたいことはこれからもたくさん出てくるのかもしれませんが、
それはきっと派生するもので、全て積みあがっていって、全部やりつつまっすぐ走っていくもののような気がしています。
私も「愚かすぎるにも程がある」「程ゲージ99%」を超えたいと思います。
それは、「想像ゲージを超えていく未来」であって欲しいと願っています。