「好きになりたい」「愛したい」は自己効力感、自己肯定感の健康法になる???
オタクは強い。
わたしの人生の中で、全力で推し活をしている方はキラキラと輝いている。
正に「生きてる」という感じだ。
その姿は愛にあふれていてまぶしい。
わたし自身オタクだけれど、夢中で生きるオタクが大好きだ。
「愛する」というのは、そもそもヒトとしてごくごく当たり前のことの筈だけれど、「効率」とか「下心」とか「依存」とか「打算」いろいろなもので見えにくくなってしまう。
大人になって、どんどん自分にすら素直ではなくなって「愛」という言葉がモヤがかかったりきれいごとや嘘のように感じてしまったりもする。
それなのに私たちは「愛されたい」と受動的にダンボールに入った猫のように通りすがりの優しい人をなんとなく待ってみたりしてしまう。
「愛したい」は、能動的だ。それは「役に立ちたい」でもないし、「支えになりたい」でもない。
「愛する自分を愛する」状態かもしれない。「それを好きな自分は自分の解釈一致」な自分探しなのかもしれないと思う。
「恋に恋する」や「独善的」をNGとする風潮で、他人や物を利用した悪い事かもしれないけれど、「自分の世界は好きで満たされている」はNGではない筈だ。
他人、他人、と誰かばかりを優先することは美徳かもしれない、誰かの顔色を窺って健やかであることを願うことも大事かもしれない。
じゃあ、自分は? となると、突然誰かに糾弾されるような気がして引っ込んでしまう。
「自分勝手に愛したい」も肯定することをおすすめする。
無条件に、なんとなく、無責任に、そういうのでいいと思う。
「何かを愛している人は強い」これは私の持論だ。
パワーが外に向いているからかもしれない。
「愛せるか不安」は「信じられない」からかもしれない。
少し依存に足を突っ込んでいる気がする。
裏切られたと感じるなら、たぶん、それは依存先だったんだと思う。
無条件の愛っていうのは、独善的なんじゃないか思う。
「独善的」の言葉の定義も難しいけれど、この場合、「相手のためを思ってうんぬん」ではなく、「ただ自分がしたいからした」的な意味だ。
だからこそ、見返りも求めないし、カラッとしている気がする。勝手にやっているから。
それは絶対正義ではないし、「好奇心」程度のものだとも感じる。
「好奇心」も悪い側面がよく取り上げられるけれど、これも「愛」だ。
ある意味「本物の愛」とすらいえてしまう気もする。
押し付けられる愛は、時に人を救うこともある…かもしれない。
これも悪くとらえられることもあるけれど、それこそ「愛されたい人」なんてゴロゴロいる。
独善的な愛と、愛されたい人が噛み合うのかはわからないけれど…。うーんこれはすれ違いそう…。
オタクの強さっていうのは、
「なんだかよくわからないけれど、無責任にこれが好き」を肯定しているものな気がする。
まあ、古参新参とか、情報通ニワカとか、人気レートとか、課金額とか
「誰か」と比べる要素もでてきたりするけれど。
「愛したい」は数値でも義務でも比べるでもなくて
「自分が好きだと思ったものを大切にする」、自己効力感や自己肯定感を尊重する行為でもあるのかな、と思ったのでした。
何かを自分勝手に好きになりたいっていうのは、
とても健康にいいんじゃないかなぁ。