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今はまだ。

お気に入りのボールペンを手に持ってから、3分の1日くらいは優に過ぎた。
高くはない、ただよく滑る、赤味がかったインクのボールペン。書きやすくて気に入っている。
シンプルなオフホワイトの便箋には、未だ一文字も書かれていない。

親友に手紙を出そうと思った。
もう2年は会っていない。酒が好きで、男が好きで、仕事が好きな、親友。
「最初は大嫌いだった」とお互いに語った親友。
そんな親友は、この冬入籍した。

――――――

人生において、人と関わるタイミングは何となく決まっている。と思う。
この時期にはものすごく仲が良かったけれど、別の時期には少し距離を置く。考えが少し違ったり、口を出したくなったり、でも大切がゆえに、尊重したくて距離を置くのだ。
別に縁が切れたわけでもない。連絡すれば喜んで時間を作るであろう彼女に、しかし僕は連絡をしない。SNSで♡を送るだけの状態。

50メートル走を、同じくらいの速さの二人が並走するとタイムが伸びるといわれている。僕と彼女はそういう関係だった。
多少長く働いてきて、ベテランと呼ばれるような立ち位置になり、それなりの実績を出して、そこそこのプライドを抱きかかえて。そんな僕たちは、恐らくお互いにそのプライドをへし折った。やり方は正反対だ。彼女は防壁を作るがごとくつっけんどんで、触るもの皆傷つけかねない噛みつきようで。対して僕は、気持ち悪いほどの八方美人で人当たり良くするのが生きがいみたいな時期だった。そんなところも互いに癇に障っていたのだろう。
「まだやるのか」「まだやめないのか」「これでもついてくるのか」
そんなことを言外に交わし、隣を走り続ける相手を最高に疎ましく思いながら仕事をし続けた。今までにない結果が出て、飲みに行き、焼酎で潰れた。僕はそれ以来焼酎が飲めない。

僕の異動が決まった時も飲みに行った。
彼女と僕のコミュニケーションは基本的に酒が入る。酒が入らないと素直になれない者同士ちょうどよかった。彼女が飲みに行こうというときは、話があるとき。それから、少しばかり淋しい時。
僕と違って基本的に遊ぶ相手に困らないタイプの彼女は、常に誰かとの約束で埋まっている。それが、決して楽しく予定を埋めているわけではないことを知ったのは、仲良くなってから暫くしてのことだった。
「アタシね、断れないだけなんだよ。アタシなんかを誘ってくれるんだもん、断るなんてしちゃダメ」
へらへらと呟いた彼女に、僕は不器用かよと突っ込んだ気がする。意外だなと思った後に、何だかやたらと腑に落ちた。

酒に任せて零すのを聞けば聞くほど、僕よりも煩わしい世界で生きていた。
女同士のしがらみ、何でもかんでもできるが故の尽くし癖。僕が変わった親のおかげで悉く避けてこられた年齢の呪い。
僕よりももっと可能性に満ちて、満ち溢れて、自由で大きいはずの彼女が、俗な色々にがんじがらめになっているのは見ていてもどかしかった。彼女の相手がドタキャンして空いた日にはすぐに予定を空けた。当日お断りが信条の僕が、彼女の「今日ダメ?聞いてほしいことあるんだけど!!」には即日対応した。
そのうち、僕は以前に比べて思ったことをはっきり言うように(何なら言いすぎるように)なった。彼女は、少し当たりが柔くなり挨拶をちゃんとするようになった。自分に不足していたからこそ不愉快に思っていた部分を、認めて取り入れたのだと思う。

「負けたと思った」
「悔しくて悔しくて堪らなかった」
「仲良くなっても大嫌いで大嫌いで、悔しくなる度態度悪くしてんのにさ」
「なんで普通にするの、もっと嫌な奴だったらよかったのに」
「ほんっとに大嫌いで、でも嫌いになれなかった」
「大好きだよ、バカ」

僕の異動が決まって飲みに行った日、そんなに酔ってない彼女が言った。
多分、誰に言われた大好きよりも嬉しかった。

――――――

そんな彼女には夢があった。僕よりも地に足をつけて走る彼女に嫉妬した時期もある。
嫉妬も通り越して眩しいと思っていた彼女と、立場を同じくするチャンスが降ってわいた。彼女が仕事をしつつ大学に行こうとしていた時、同じタイミングで僕は退職して大学に行くことを決めた。自分一人の力だけで成し遂げようとしていた彼女に対して、親の助けを受けざるを得ない僕は恥ずかしかったが、彼女は喜んでいた。
同じ大学じゃなくても、この年で同じ学生の立場って嬉しいよね!と屈託なく笑ってくれたのが嬉しかった。

その会話のおよそ半年後、彼女は結婚が決まったと僕に言った。

彼女の恋の話は何だかんだと駄々洩れてくる。
彼女自身が僕に話すのだが、それはそれは赤裸々だった。職場で捕まえた年下男子とセフレ状態になったのに実は本気だったことも、一目ぼれした王子様がとんでもナルシスト束縛ッキーだった話も、まあなかなか詳細に聞いていた。王子様と別れて暫くたったころ、連絡する暇が互いになかったのもあるが、マッチングアプリを始めたという話だけは聞いていた。
からの、結婚報告だった。

「夢は諦めない、絶対やりたいことだから」
「でも、ちょっとルートを考え直さなきゃいけないというか」
「大学はね、行かないことにしたんだ」

LINEだったか、電話だったか覚えていない。
そのあとに、迷うような間とともに緩く投げられたごめんね、という一言を、僕はちゃんと受け止められた自信がない。
彼女が幸せになれるならいい。夢を諦めなくて済むならいい。そもそも、反対されたって欲しいものは全部手に入れるような彼女だ。結婚も、子供も、夢だって、全部手に入れるに違いない。
けれど。
けれど、自分が吐いた祝福の台詞の深く奥底に、嫌なものが隠れているのを僕は自覚した。

深く掘り返せば自分も彼女も嫌いになりそうで、僕はそれを掘り返していない。自己分析癖が度を越している僕にしては異例のことだ。彼女を大切に思うことに変わりはないが、同種の人間として安心していたのだと思う。彼女は僕の何倍も、諦めずに努力していたというのに。
嫉妬のような、焦燥感のような。そんな類のものが綯い交ぜになった澱を彼女に見せるわけにはいかない。


そうして僕は、「彼女とは暫くタイミングではない」と結論付けた。
別にわざとらしく縁を切ったわけではない。
元々LINEなんてほとんどやり取りしない。
SNSで♡を送りあうだけの。

たぶん彼女は何となく気付いているんだろう。
もちろん新しい日常に追われて忙しいのもあるだろうが。彼女はたまに驚くほど勘がいい。きっと、彼女の”ごめん”が僕に届く前に足元に落ちたことを知っている。その上で待ってくれているんだろう。めったに自分からは言わない僕が、彼女に「飲もうぜ」と声をかける日を。

――――――

とうとうボールペンを机に放り投げた。
今じゃない。そう、今じゃないのだ。
彼女との話が文字だけで済むはずがない。どうせ話し足りずに飲むことになる。今無理矢理に絞り出すくらいなら、納得のいくタイミングで全部伝えてしまえばいい。

転がったボールペンを、猫がちょいちょいとつついて転がす。
オフホワイトのまっさらな便箋は、丁寧に仕舞いなおした。
とうに傾いた日の光に、遅まきながら散歩に出ようと立ち上がり、猫を撫でて支度をする。彼女には懐かなかった猫。そんな猫にお邪魔しましたときちんと挨拶して帰っていった彼女を思い出す。

まだ直接は伝えられないけれど、ちゃんと見てるよ。
どうせ言わなくてもなるだろうけど、幸せになってくれ。
全部全部手に入れて、腹の立つドヤ顔で自慢してくれ。
言うべき最後の一言は、胸中でもやはり飲み込んで―――



――――――またね。







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