【かきすてる】祖父
祖父の誕生日は覚えている。毎年固定の祝日で、小さい時「じいちゃんの誕生日だから休みなの?」と聞いたら真顔で「そうやな」と言われた。しばらく信じていた。
でも、命日は覚えていない。
つまり、そういうことなんだと思う。
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幼少時僕は祖父が大好きだった。祖母も大好きだった。
母の実家は海の近くで、結構田舎だったのに祖父母はとてもハイカラだった。いつ行ってもスラックスが普段着の祖父、いつ会ってもきれいにお化粧をしている祖母。自慢だったけど、ちょっと身が引き締まるというか、幼い僕の「ええかっこしい」に拍車をかけるような存在だったと思う。
それでも案外とひょうきんなところがあった(母曰くそんな面白味のある人じゃなかったらしいが)祖父は、僕が行くと必ず遊んでくれた。お気に入りの喫茶店にモーニングを食べに連れて行ってくれたり、裏の畑で赤とんぼをしこたま捕まえてくれたり。朝から晩まで遊んでくれていた気がする。「もう勘弁してあげて、おじいちゃん疲れてるよ」と母に止められた記憶があるくらい。
僕にとっての祖父は、多分ここで止まっている。
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小学三年生の時、祖母が亡くなった。まだ若かった。
もちろん悲しかった。でも、母の悲しみ様の方が印象に残っている。話を聞く限り結構な機能不全だった母の実家だが、悲しみに暮れる母をなだめる祖父の姿を見て、「母はああいってたけど、祖父も母のことが大事なんだな」と思った。祖母の死は悲しかったけれど、祖父と母のその雰囲気に、子供ながらによかったな、とぼんやり感じていたのを覚えている。
祖母をなくした祖父の気落ちもひどくて、遠方ゆえに年に数度行けばいい方だった母の実家に、月に何回レベルで行っていた。今思えば、母の実家はあの時一番何かしらの結びつきが強かったんじゃないだろうか。
祖父の気落ちに僕は何となく意外な印象を受けた。そんなに祖父母が仲が良いという印象があまりなくて。もちろん悪いとも思わなかったが。母に少しずつ話を聞くと、祖父と祖母は結構熱烈な恋愛結婚だったらしい。小さなアパートで二人暮らしをしていた、みたいな話を聞いて、納得するとともにちょっときゅんとした。結構ロマンチックな話だった。
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母の弟が結婚して、母の心配は多少軽減された。世話を焼きに行く機会も減った。でも、祖父はやはりあまり元気がなかった(ちなみに、母の弟のお嫁さんとは多分祖父はそりが合わなかったが、愚痴は一度しか聞いたことがない。毎日三食うどんが出されること。日常的にうどんを食べる県民の祖父が、一度だけ「うどんはもう見たくもない」と言っていた。僕はちょっと笑った)。
周りの心配をよそに、祖父は飄々と一人だった。ように見えた。
再婚の話もないわけではなかったらしい。でも祖父は一人で。朝夕ご先祖様と曾祖母と祖母にお経をあげていて。
僕は祖父が再婚するなんて思いもしなかった。
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僕が中学生の時。
母が母の弟嫁からの電話の最中に悲鳴を上げた。結構な長電話だったと思う。肯定的な声音で電話を終えた母が、今度は祖父に電話をして、しばらく話すとだんだん声が険しくなった。
「―――わたしの同級生?」
ものすごくいろんな感情が混ざり合ったのを抑えに抑えた声で電話を終えた母が、ぽつりと言った。
「おじいちゃん、再婚するって」
へえ、そうなんだ。しか言えなかった。母は昔から何でも僕に話してしまう人で、その件に関してもあまり隠すことはなかった。
祖父が再婚すると急に言い出したこと。
その相手が母の高校の同級生だということ。
祖父の状況を考えれば再婚自体は反対できないこと。
娘と同じ年の人を連れてきた祖父に、特に母の弟は嫌悪したようだが、僕はいまいちピンとこなかった。ただ、そこから先の情報は、中学生の僕にはできれば伏せといて欲しかったな、と今では思う。
その同級生は、高校生の頃に祖父に一目ぼれしたこと。
恐らく、二人が再会したのは祖母の入院中だったこと。
再会してからずっと「付き合い」は続いていたらしいこと。
この辺で僕の祖父は多分死んだ。
*
母の、同級生に対する嫌悪はものすごかった。まあ仕方ないと思う。
それでも表向き、年に何回の帰省はしていた。迷惑だったのはこちらの方だった。母の実家に行けば、僕は「おじいちゃん子の可愛い孫娘」をしないといけないんだから。実際、祖父の僕に対しての態度は全く変わってなかった。僕が好きだと幼稚園の頃に言っていたヤクルトジョアはその頃になっても変わらず冷蔵庫に常備されていた。
ただ、ひとつ変わったのは、何処に行くにも母の同級生が一緒に来るようになったこと。モーニングに連れ出してくれるのも、新しい商業施設に行ってみるのも、祖父と二人ではなく、祖父と、母の同級生と、僕。こんな気まずいことあるか。
両親と祖父、母の同級生とオルゴール博物館に行ったとき、両親とも祖父たちとも離れて見て回っていた僕は、祖父と母の同級生が手を繋いでいるのを視界の隅にとらえてしまった。
この時の感情はちょっと説明しがたい。何だろう、両親の性的なシーンに鉢合わせるのに近いものがあるかもしれない。
悪いことではない。決して。ただ、中学生の僕には荷が重すぎた。
母の同級生に対しては、僕は基本的に無感情だった。
まあ、「祖父の手前嫌うわけにはいかない」と「母の手前懐くわけにもいかない」がせめぎあった結果とも言える。ただ粘着質な喋り方は苦手だったのと、「祖母とは呼びたくないな」と思っていた程度。
でもそれも、ある一言で「嫌い」に振り切れた。
「(祖父)さんは(僕)ちゃんが可愛くて仕方ないんやねえ、うらやましいわぁ」
…うらやましい?
その一言が強烈に引っかかったのを覚えている。ねっとりした言い方だった。祖父が滞在期間中延々僕にかまうのが余程気に食わなかったらしい。祖父が孫にかまうのに嫉妬するのか。うらやましいってなんだ。
邪魔だったんだな、と思った。
僕は帰省しても祖父と出かけなくなった。出かけるときは両親も含めて。そのうち帰省についていかなくなった。高校生か浪人中だったはずだから、まあそんなに何か言われることもなかった。もう祖父は他所の人になったんだと思うことにした。
ただ、時々朝夕お経をあげる祖父をひどく糾弾したくなる気持ちになった。
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祖父が死んだのが何年前か、それも覚えていない。入院してから結構あっという間だった気がする。祖父の死については、祖父の死自体よりもぴりついた葬式のことの方が印象が強い。祖父の親戚にも、母の同級生は受け入れられていなかった。母の同級生の親族の印象が悪かったのもあるだろうが、この辺りは単なる悪口になりかねないので割愛する。
母が、悲しむ暇もない、わたし親を亡くしたのに、と苦笑気味に呟いていたのを覚えている。
とにかく、母の側を離れない、くらいしか僕にはやることがなかった。
ただ、母の同級生が無神経なことを母に言おうものなら張っ倒してやろうと思っていた。
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祖父と祖母は恋愛結婚だったらしい。
祖父が祖母にほれ込んで、花束持ってプロポーズした。
でかい実家がありながら、狭いアパートで二人で暮らし始めて。
すごく幸せだったって。
実家に戻ると、曾祖母と祖母が時々折り合いが悪くて苦労したそうだ。
祖母はキャリアウーマンで。
祖父はしがないサラリーマンで。
稼ぎは祖母の方が上。
祖母の稼ぎで実家のリフォームもしていたくらい。
祖父は賢い人で、実家の金銭的な理由で進学を諦めたらしい。
プライドも多分高かった。
色々思うことがあったのかもしれない。
母の同級生は、高校に来た祖父を見て一目ぼれしたらしい。
それからずっと好きで、忘れられなくて、再会した時は嬉しかったんだと。
祖父が晩年になってでも一緒になれたのは、夢が叶ったんだろうか。
祖母がリフォームした台所で、何を思って料理したんだろう。
祖母のものを母が愕然とするほどすべて処分して、満足したんだろうか。
幸せだったんだろうか。
祖父は、何を思いながらお経をあげていたんだろう。
祖母の写真が飾られた仏壇に。
朝夕欠かすことなく、毎日毎日毎日毎日。
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祖父が死んだ後、遺産を部分的に隠してかっぱらって、家具からテレビのアンテナまで引っ剥がして、母の同級生は、母の実家を出て行った。
「手切れ金と祖父の世話の謝礼だ」と母は吐き捨てた。
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いつかも覚えていない、あの冬に死んだのは僕にとって誰なのかもうよくわからない。僕が小さい時に、面白くて、優しくて、ちょっと勝手で、赤とんぼを捕まえるのがうまくて、ヤクルトジョアを常備しててくれる祖父がいた。でもいつの間にかいなくなった。
美談かもしれないよね。高校の時のひとめぼれが実りましたなんて。
願わくばよそでやってほしかった。
せめて伏せていて欲しかった。
知らなければ、何とかおじいちゃんと孫でいられたかもしれないのに。
墓参りにはいかない。
あの墓に入っているのは僕にとっては曾祖母と祖母だけなので。
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今更特に感情が揺れ動くというほどのこともない。何かがトラウマになっているわけでもない。
ただ、10年近くずっと、「祖父」と「死んだ祖父」に乖離があって、澱のようになっていたので、一度きれいにしないとなと思っていた。大好きな祖父の方まで忘れそうで、それは何となく嫌だったから。
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さようなら、おじいちゃん。
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