フィッシャーマンのすすめ
現代に生きちゃってるのにSNSってのがなんだか自分には向いてないと思いながらも、ストーリーズだけはしっくりきている。僕はヒューマニストであり且つ物語主義者なので”ストーリーズ"というその言葉の響きも、たくさんの人が物語をいま紡いでいるのだといった感じがして、好きだ。基本的にアーカイブされない、つまり残らないところも好きだ。なんか演劇っぽいじゃないですか、コンセプトが。"つねにパラレルに人間の物語は存在している"。とはいうものの熱心なストーリーズユーザーというわけでもないわけなのだが(それは僕が熱心な演劇ユーザーでないところとも似ている)。
10日間の黄金週間は静岡のストレンジシードで新作短編「フィッシャーマンとマーメイド」を上演した。関係各位、観客のみなさんありがとうございました。このフェスティバルはある種僕たちのような舞台表現をする”異物”を、かつての攻撃的に認めさせる市街劇とは違って、いますよと風のように感じたい時に感じさせる柔和さが僕は好きだった。ついぞ見落としてしまいがちだけど、今日だって明日だってどこかで風は吹いている。街の人々がその存在に気づいてくれるだけでも、大きな成果だ。Youtubeに負けてられっかよ。街の中にもっと演劇が増えれば、街の中の些細な演劇に気付ければ、再生ボタンを押さなくたってきっともっと人生は楽しめる。僕は熱心な演劇ユーザーではないと前述しているけれども、それでも僕の中から演劇のなくなる人生など考えられない。Youtubeがなくなるよりも、演劇がなくなるほうがずっと嫌だ(しかし僕は熱心なYoutubeユーザーではあるものの)。
アリ・アスター監督の「ヘレディタリー/継承」はレンタルされてから観た。ちなみに僕は映画館で観る映画も大好きだけれども、家で観る映画も大好きだ。だから映画の最新情報が入るたび「これは映画館でみようかな」「これは家でみようかな」と優劣なく判断する。映画館で観る映画こそ至上、といった感覚は僕にはあまりない。一人で本を読むように、一人で映画と向き合う時間も僕にとっては立派な映画体験だ。そんなネトフリ世代(あるいはTSUTAYA世代)の僕にとって「ヘレディタリー/継承」はドスンッストラーイクな作品だった。たぶんこの憶測は間違っていない気がするのだけども、ネトフリ世代にむけた複数回鑑賞することをあらかじめ周到に想定した作品だと思う。こんなに恐くて、悲しくて、グロいけど、品がある。ホラームービーってどこか、露出多めの女性の存在(おっぱいおしり)に頼りがちというか、そうした艶やかさで本来陰惨でカビ臭いホラーな内容を中和させているのだろうけど、今作はむしろとあるシーンでも描かれているように「おいおいおしりばっかりみてるとヤバイぞ」なレトリックで「おしりホラー」に対するアンサーをしているようにも見えて、なんだかそうした強かさも好きでした。おしまい。
「いやあ世界はほんとに豊かだよ」フィッシャーマンのセリフにあるように、僕もたしかにそう思う。もちろん僕が書いたものだから僕の分身のひとつでもあるわけだけども、すべてが僕ってわけじゃない。それはいままで書いたものも、これから書くものも。彼には彼のマーメイドがいる。僕にとってのマーメイドは紛れもなく演劇だ。