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ぽよよんの反動

 ひとつ公演が終わると2日3日なんにもやる気が起きなくなって廃人寸前になる癖をどうにかしたい。それでも以前は1週間近く部屋に引きこもって映画を見て本を読んでゲームして酒飲んでという生活をしていた頃に比べれば2日3日の営業停止で済むのだから少しはマシにはなったほうだ。

 僕が学生演劇に染まっていた時分、現代演劇にはまだ精神論がはびこっていた。「がんばればなんとかなる」とか「気合いが足りない」みたいなダメ出しがまかり通っていた頃、わりかし真っ向からそういう風潮を気持ち悪がっていた僕は、むしろ精神をないがしろにして創作をしていたようなところがあった。己の精神を労ることもなく、また他者のそれにも介さないことで、クールな姿勢を保とうとしていた。ところが結局のところ、クールなどという態度が、存外自分には不向きである、という現実に目配せすることなく創作をするものだから、その不釣り合いのツケが、公演後に大津波のように襲ってくるのだった。

 稽古場での自分を偽っている、というつもりはまったくない。僕は僕という人間から出てくる言葉でしか演出も劇作もしていないし、ある意味でそうした姿勢を遵守することにプライドを持っている。けれども、どうしてか、どうやら、僕は僕本来の持つとても幼稚なひとつの要素が「演出家」という職の衣を羽織ることで虐げられてしまっているということに、無自覚なのだった。例えば僕は脈絡もなく「ぽよよん」とかいう言葉を発したくなるし、最近観たアニメを「すげーいい」みたいな雑な評で会話をしたいと思うことがある。けれどもそれは「演出家」というなんらかの権力の視線を集めるポジションにいて、仕事のパートナーたちを非常に不安にさせ時に不愉快にさせ、平たく言えば舐められるのだという常識の尺度のようなものを僕は中途半端に持っているのだった。だから「ぽよよん」とは言わないしある程度自分の振る舞いには気を配るようにしてきた。稽古場はある程度効率的に進む。けれども自分の中の「ぽよよん」を雑に扱うせいで、ぽよよんの呪いが公演後に僕を襲うのだ。ぽよよんの復讐である。

 先日上演を終えた「魔女の夜」の稽古場で、スキルの高い人々に囲まれながら、僕は僕の「ぽよよん」を2割くらい出すこと、出せるようになることを目標にしていた。そうしなければなんだかこの先、僕は演出家として、演出家という職種の威厳にのまれて無個性な人間になっていくような気がして、むろん演出の言葉に嘘はなかったとしても、人間として空虚になっていく気がして、それはとてつもなく僕の未来の自分像に反するものだったから、わりかし命懸けで「ぽよよん」を志した。自分の中の2割くらいの「ぽよよん」を持って戯曲を読み解くと、表向き凄惨なドラマの中に、一握りの優しさがつまっているような気がした。劇中の二人は粘着質なオソロシイ関係性ではなく、むしろ、爽快な美しい関係性なのだとさえ僕は思った。劇中で描かれるあの夜、さゆりと友紀は己の中に溜まっていた感情や嘘を互いにすべて吐き尽くす。「私はあなたが嫌い」なんて面と向かって言える夜。それでも辛うじて「一緒に落ちる」と言える夜を僕は美しいと思った。これはたぶん、僕が「ぽよよん」を意識していなかったのならばそう読み解かなかったたと思う。ねちっこくてオソロシイ夜として、あの夜を描いたろう。でもそんなふうに僕はしたくなかった。僕は人間のことが好きだし、僕が人間のことを好きでいるための「ぽよよん」を、現場が許容してくれたからだった。

 僕が嬉しかったのは、鈴木杏さんや入山杏奈さんをはじめ、現場スタッフ、配信スタッフ、テキスト、全員で「魔女の夜」をつくった実感が持てたからだった。舞台監督の南部さんのふとした一言、演出助手の山田さんの一言、制作の佐々木さんやプロデューサーの加藤さんの一言、ひとつが欠けてもあのようにならなかったろう、という事実は、集団創作の現場にいて代え難い幸福である。

 惜しむらくは、みんなと打ち上げができなかったということである。稽古期間中も「のみたいね〜」などとは言うがむろん万全な感染対策からそれができないことはみんなもわかっていた。お互いを労ったりお疲れ様と言うただそれだけのことが、仕事を終わらせる合図になるのだ。ただ、もしも僕が飲み会などで「ぽよよん」を4割ほど見せてしまったのだとしたら、現場の緊張感を削いでいたかもしれないと思えば、これでよかったのだと思う自分もいる。

 だから、冒頭の通り「ぽよよん」の反動が、「魔女の夜」の終演後、僕を2日3日廃人にさせた。


 ここからまた、浮かび上がる。

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