文学フリマ特別号・小野寺ひかり『とある殺人』
11月23日開催する文学フリマに【クー36】「Sugomori」として出店。
物書きメンバーが【隣人】をテーマに執筆した、新刊「文芸誌Sugomori vol.2」(800円)を発売します。vol.1から半年経て、物書きメンバーに起きた生活の変化をつづった書き下ろしエッセイ【すごもりのおとも】とともにお楽しみに。今回は特別記事として、少しだけ先読みできます。書き手は小野寺ひかりさんです。
隣の部屋に住む住民が殺された。
――のをテレビの報道で知った。24インチのモニターに映し出された、築二十五年、三階建ての古びたアパート。外観塗装や内装のリフォームをしてはいるが、住宅としての古さは十分に伝わる。周辺建物から伸びた木の枝葉や、どこにでも絡まりそうなツタ植物が、その場の雰囲気を盛り上げている。嗚呼。
「いかにも殺人事件が起きそうって感じ」
と、本音が漏れた。画面の向こうでは紺色の制服に身を包んだ捜査員がひっきりなしに出入りをしている。運び出される段ボールの数々。報道、野次馬も含め、私の部屋の扉の前に十数人がいたのかと思うとソーシャルディスタンスが叫ばれるご時世には感慨深い。この瞬間に扉を開けたら「刑事ドラマ」らしい再現ができたのだろうか。「ああ?お隣さん、先月引っ越しましたけど――」さもありなん。テロップを見ると報道されている映像はライブ中継ではなく、すでに録画されているものだったらしい。リモート勤務と出社を繰り返している間にも世間は絶え間なく動いている。
それよりも表札に名前を出していたことが気になり始める。テレビ越しでは望遠カメラだから判読はできない。来栖(くるす)と、初めての一人暮らしに勢いよろしく自身で記載したものだが、誰彼問わずに氏名が割れるのは、なんだか居心地が悪い。それも殺人事件の報道で、だ。
「あ」と声が出た。昨晩、着信履歴があったことを思い出したからだ。「アパートの管理会社」の表示名のせいでアパート更新のお知らせか、賃料の支払い確認か、はたまたゴミ出しのクリーンアップ作戦についての提案か。どうせろくなことはないだろうと想像していた。なるほど用件はこれか、と履歴から折り返し電話をする。
「お世話になっております。パートナーズ不動産です」
コール3回で、小気味の良い女性の声が聞こえた。
「コーポサウスカロライナの203号室の、来栖です。電話をもらったようで」というと担当に代わります――と保留音が流れ始めた。エーデルワイス。エーデルワイス。どこかの国の花をたたえる歌だ。小さな白い花を想像しようとするも、コンタクトレンズを外した視界のように、脳内にはずいぶんとモザイクがかかった姿が浮かび上がる。エーデルワイス? きっと、すずらんのような姿だったはず。
「お待たせしました。お電話した水野内です」と野太い男性の声が響いた。声の大きさに、スマホをスピーカーモードに切り替えた。「すでにテレビをご覧になったかもしれないのですが」と前置きをして、水野内氏は説明を続けた。
「お隣の202号室の方がお部屋で亡くなられたんです。実は本日、私も立ち合いで入室しまして。警察は、事件と事故の両方で捜査しています。後日、警察から来栖さまにもお話しを伺うことになるだろうと。それでお電話差し上げた次第です」
「わかりました」
我ながらあっけない返事だった。生き死において、まったく己は、どういう神経だ、とひと言いってやりたくなる。
「あと1点、ほかのご入居者の方からもお尋ねあったことで、ご安心いただきたいのがコロナ死ではない、ということなんですけども」
「は」
「しばらくは部屋の清掃やリフォーム工事の作業も入りますので、騒がしいことと存じます。ご迷惑をおかけいたします」
「あ、はい」
安心してください、履いてますよ、と一介の芸人がピンクのパンツを指すギャグが思い浮かんだ。水野内氏のトーンがすでに話の締めに入ろうとしている。何か言うべき事があるだろうが他人様の不都合な死に、ご愁傷様です、と今更言葉に出すのはためらわれた。
「何かご不明な点はありますか?」
「あーっと……また何かあればお尋ねします」
「ええ、お気軽にお問い合わせください」
電話を切る瞬間になって脳裏に浮かんだのは、隣に住んでいた人の名前は何?だった。通話終了とタップする。たぶんあの人。20代半ばの男性でたまに女性を連れ込んでいた。茶髪でおしゃれな私服姿に、大学生の印象を抱いたこともあったが、それから2,3年は経ったはずだ。お隣のドアの開閉音が聞こえる頃、私はベッドで眠りにつく直前だった。何も知らなかった。たまにすれ違うことがあっても「こんにちは」と社交辞令で目線を交わす程度だ。彼はどんな声をしていたのか。思い出せない。
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