【小説】衣南かのん『シティ・ストレイドッグス』前編
町外れの、一人で住むには大きすぎる家。それが彼女の持っている、全てのものだった。
毎日昼頃に目を覚ます彼女は、起きてまず一杯の水を飲む。喉を潤し、自分の声の調子を確かめたら小さな冷蔵庫を開けて食事の準備。
サラダとは名ばかりの、葉っぱをちぎってミニトマトを散らしただけのものとパンを胃におさめたらピアノの前へ向かい、軽く指を滑らせる。今となってはほとんど趣味になっているピアノは、それでも毎日の楽しみの一つだった。
最後に何曲か、ピアノに合わせて歌を歌う。ロック、バラード、ジャズ……日によってさまざまな歌を歌い、喉を開いて、満足したらピアノの前から立ち上がる。
彼女はシンガーだった。毎夜、街中の小さなクラブで歌を歌っている。客はさまざまで、彼女のファンだという者もいればただ酒を飲みにくる者もいるし、女性を口説くためにいい雰囲気を求めてくる者もいる。
どんな客を前にしても、彼女がやることは変わらない。ステージに立ち、歌を歌う。それが彼女の仕事で、生活だった。
その日は季節外れの大雨で、客入りは全く芳しくなかった。雨宿りに訪れた仕事帰りの常連客が帰ってしまえば、後はぱったり。
早めに閉めようというオーナーの判断で、彼女のステージも途中で仕舞いになった。あくまでも客商売なので、そういう日もある。
久しぶりに用意していた新しい曲を歌う番を待たずに彼女はステージを降りて、帰路に着くこととなった。
雨の日は、いつも以上に町が静かだ。薄暗い道を一人で歩きながら、今日は早めに寝よう、と考える。
何があったわけでもないけれど、妙に疲れていた。
そうして、いつもよりも少し足早にたどり着いた家の前にはーー犬が、いたのだ。
「犬……?」
思わず漏らした声に反応して、犬は顔を上げた。
丸い茶色の瞳が無垢に揺れて、わずかに首を傾げる。瞳と同じく茶色い毛は、本来ならふわふわと上等のものだろうに雨ですっかり濡れそぼっていた。
「なんでこんな所にいるの?」
尋ねる言葉にも、犬は答えない。答えられない、と言った方が正しいか。
言葉のかわりに、犬は視線を彼女の住む家に向け、そしてまた、彼女に戻した。
「そうよ、ここは私の家」
少し申し訳なさそうに、犬が動こうとする。おそらく、またどこか休める場所を探すつもりだろう。
どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。けれど彼女は衝動的に声を上げていた。「待って」と。
「行くところがないなら、家に入る?」
少し経って言葉の意味を理解したのか、犬は驚いたように目を丸くした。
「古い家だけど、結構広いの。雨風を避けるには十分だと思うわ」
それに、と彼女は続ける。「私以外には、誰もいないから」
戸惑いの表情を崩さないまま、犬は彼女と家を交互に見つめた。揺れる瞳は、それでも外より大分暖かいであろう家に惹かれていることがわかる。
だから彼女は少し強引に、扉を開いた。おずおずと足を踏み出す犬の、背中を押すために。
1階に彼女が過ごす部屋と、ダイニングキッチン。そして2階にゲストルームが3つ。それがこの家の間取りだった。
「無駄に大きいでしょう?」
きょろきょろと落ち着かない様子で辺りを見回す犬に、彼女は小さな笑い声をこぼす。
その家は、彼女が彼女の名前と引き換えに手に入れたものだった。
シェアハウスにでもすればちょうどいい間取りだし、そうすればもう少し生活に余裕もできるのだろうとは思う。この家を与えた人間も、きっと、彼女にそれをのぞんでいたのだろうとも。
けれど深く人と関わることは億劫で、結局ずっと一人で暮らしている。
彼女にとって必要なものは、そう多くなかったしーーステージに立つことでもらえるわずかなお金があれば、暮らしていくには十分だった。
「好きなところで寝ればいいわ」
タオルと、温かいミルクを用意して彼女は犬に伝えた。
「2階の部屋は使っていないから少し埃っぽいかもしれないけれど……ああ、私の部屋も立ち入り禁止ね」
部屋にはピアノがある。物に頓着のない彼女が、この家で唯一ーーそして、最も大事にしている、ピアノが。
「それから……」
何か伝えるべきことはあっただろうかと考えて、そういえば自分のことを何も伝えていなかったことに気づいた。
と言っても、彼女に伝えるべき自分のことなどほとんどないのだけれど。
「私はリアっていうの」
それは、ステージに上がる時の名前だった。今の彼女にとって、ただ一つの名前とも言える。
「それで、あなたは……」
尋ねて、答えられるはずがないことに気づく。何かヒントがないか探したけれど、あいにく見つからなかった。
「困ったわね。名前がないと、あなたを呼べない」
犬、と呼ぶのはあまりにも情緒がないし、さすがに少し、躊躇いを覚える。
「……嫌じゃなければ、私が名前をつけてもいいかしら?」
リアの言葉に、犬は少し、嬉しそうにした。それはもしかしたら、リアがそう感じただけなのかもしれないけれど。
「そうね……ニコ、はどうかしら?」
リアの脳裏に浮かぶのは、幼い頃に飼っていた犬の姿だった。長い、ふわふわの茶色の毛を持った大きな犬。いつも笑っているみたいに口元が上がっていた。どことなく、目の前の犬は彼に似ているような気がしたのだ。
特に異論はなかったようで、もう一度「ニコ」と名を呼べばニコはリアを見上げて微かに眦を下げた。
リアにとって随分久しぶりの、一人じゃない生活はそうして始まった。
翌日、いつものように目覚めたリアはダイニングキッチンへと向かった。
リアの住む家のダイニングキッチンは、決して狭くはない。むしろ一人で暮らすには十分すぎる広さだけれど、そのせいかどこか閑散としている。
小さな冷蔵庫が一つに、ミニキッチンが一つ。カウンターテーブルは二人座ることもできるけれど、椅子は一つしか置いていない。リア以外、この部屋を使うものはいないからだ。
窓辺に置いた大きな観葉植物は、リアがこの家に越してきたばかりの頃、部屋を持て余して購入したものだった。
リアは、物を選ぶこと、買うことが極端に苦手だった。
何かを選ぶことは、何かを試されているような気がして。
何かを得ることは、何かを失う前触れの気がして。
だからリアの部屋には、物がとても少ない。最近は物の少ない部屋に暮らすこともライフスタイルの一つとして認められているらしいけれど、リアは自分のそれが、「スタイル」なんて立派な物じゃないことは知っていた。
いつも通りサラダとパンだけの簡単な食事を用意するため、キッチンに向かう。その途中、足元に何か温かい物がぶつかってーー
「!」
声にならない叫びをあげそうになったところで、ハッと気づいた。
ーー思い出した。
ニコだ。
「……ごめんなさい、悪気はなかったのよ」
思わず蹴りかけてしまったことを謝ると、ニコはまだ眠そうな顔をゆっくりと持ち上げて首を傾げるようにしてみせた。
どうやらニコも、状況を掴み損ねているらしい。
「覚えてる? あなた、昨日からうちで暮らすことになったの」
尋ねても、当然返事はない。けれどリアは構わず続けた。
「ごはん、食べるでしょう? ……大したものはないんだけど」
そう言いながら冷蔵庫を開いてみると、そこには本当に大したものは入ってなかった。
いつもの野菜がいくつかと、ヨーグルトにミルク。軽く額を抑えつつリアはニコを振り返る。
「……サラダでもいいかしら」
今日の帰りには久しぶりに肉を買ってこよう、と、少し寂しげなニコの瞳を見てリアは決意した。
(続く)
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Sugomori 2022年6月号
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