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【全文無料】掌編小説『蝉』舞神光泰

文芸誌「Sugomori」8月の特集として、季節の掌編小説をお届けします。書き手は舞神光泰さんです。


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『蝉』

 子供の頃の苦手を克服できずに大人になったので、未だに怖いものがいっぱいある。

 特に虫がダメで、蝶すらおっかなく落ち葉にも怯えるほどだ。
 中でも蝉は生理的に受け付けない。見た目、鳴き声、死に際の自らを罠と化す底意地の悪さ。その全てが恐怖の対象だ。
 なのに地面に落ちている蝉を殺さないと気がすまない。過去のつまらない一場面がリフレインして、それを消すためには踏み潰さなければならない。

 小学生の頃、私は剣道を習わされていた。筋金入の根性なしとへそ曲がりを、厳しい環境に置けば治ると信じて母が勧めた。常に時間が過ぎるのを待っているような練習態度だったので、強くもなるはずもなく。そんな子供だったから先生にも嫌われて1人だけ自宅で素振りを命じられたほどだった。とにかく苦痛を耐える修行だと言い聞かせて自分の殻にこもっていた。


 ある夏の日、夕方頃だったと思う。デパートの前で親を待っていると、死にかけた蝉が羽を背にして駆けずり回り、こちらに突っ込んできた。私はジャンプして避けて距離を取ろうとした。しかし運動音痴でもあったので踏み切った足が上がりきらず。そのまま蝉を半端に踏んづけた。半端というのは、蝉がギリギリ生きた状態で靴裏にへばりつたのだ。靴を投げ捨て壁に当てても蝉はついたままでジジッと鳴いて羽をバタつかせた。気の毒に思ったのか、サンダルを履いたオジさんがその蝉をクシャっと踏み潰して、靴を持ってきてくれた。問題だったのは、サンダルのオジさんが剣道の先生で、私と認識した瞬間笑みを解いて、いつもの睨むような視線に変わった。先生は私の前で立ち止まり、靴を投げた。

「情けない、ダボが」といつものように怒鳴り散らすのではなかった。
「蝉ってのは、腹の中身がほとんど無い虫なんだ。だから声がよく出るんや」
ちょっとした蝉の講義が始まった。
「お前は知らんと思うけど、蝉ってのは7年間土の中でジッとして−−」
「でもな、大人になって中身がなくなって、喚くだけ喚いて暴れて、最後は脆く死ぬ。そんな風にはなりたくないよな。お前もそうだろ」

 子供の私にその真意は分からなかったが、それだけ言い終えると先生はサンダルを脱いで、私のすぐ横の壁に蝉の残りをなすり付けた。もうとっくに死んだはずの蝉からいつまでもジーーーーと声が聞こえて、目だけが丸いままでこちらを見てきた。


文芸誌「Sugomori」 作:舞神光泰


舞神光泰さんのsugomori寄稿作品


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