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【学ぼう‼刑法】入門編/総論02/違法と有責の理論/犯罪論の体系

第1 はじめに

前回の終わりに、次のような問題を出しました。

もちろん、この「Q1」の問いは、荒唐無稽なものです。お年寄りに席を譲ったら死刑なんて、あまりに馬鹿げています。そんな法律など作れるワケない。……と、みんな思うでしょう。

しかし、もしこんな法律を国会が作ったとしたら、これはなぜいけないのでしょうか? 法的にどこに問題があるのでしょうか? 

このような荒唐無稽な問いに対しても、論理的に答えることができる、ということは、法律学を学ぶうえでとても大切だと私は思います。

ときどき、大人に対して「なぜ人を殺してはいけないのか?」と大真面目に問いかける若者がいます。しかし、すべての大人がこの問いに対して、適切な答えができるワケではありません。

こんな若者の問いかけにイライラした大人が「それなら、お前、殺してやろうか? イヤだろ?」なんてスゴんだりしますが、問題の所在はそこにはありません。そうすることによって、相手を黙らせることはできるかもしれませんが、納得させることはできないでしょう。彼は、人を殺したいのではなく、答えを知りたいのです。

この「Q1」の荒唐無稽な問いかけも同じです。こんな法律を作ることがおかしいということは、だれもが解っています。問題は、それがなぜなのか、ということを、論理的に、筋立てて、説明することなのです。この荒唐無稽な問いは、そのための題材に過ぎません。

この荒唐無稽な問いは、手段です。何のための手段か?

それは、私たちが犯罪というモノについて本当に深いところを理解するための手段です。

上記「Q1」の「お年寄りを甘やかす罪」が、民主主義的な過程を経て、手続上正当に制定されたとしても、それがなぜ法的にはダメなのか?

その理由を解明するために、大昔、犯罪と刑罰はどのようなものであったのか? それが、どのような過程を経て、現在のような形になったのか、ということについて概観してみましょう。


第2 違法と有責

1 目には目を、歯には歯を

まずは、このことを考えるにあたり、「目には目を、歯には歯を」という誰でも聞いたことがある有名な思想からスタートしましょう。これは、ハンムラビ法典に記載されていた「タリオの法」という考え方です。「同害報復」の思想とも言われます。

ハンムラビ法典やタリオの法については、次のとおりです。

ハンムラビ法典

「他人の目を潰したら、自分も目を潰される」「他人の歯を折ったら、自分も歯を折られる」という同害報復の考え方は、現代からすれば怖ろしい思想のようですが、「やられたらやり返す。倍返しだ!」などという池井戸潤の小説の主人公のような考え方が、マジでまかり通っていた時代において、加害者が受けるべき刑罰の限度を「同害」に制限したハンムラビ王は、当時としては、極めて人道的な思想の持ち主だったに違いありません。

同害報復の思想では、少なくとも「同害」という限度において、被害者と加害者の公平性は保たれていると言えます。

2 同害報復から責任主義へ

しかし時代が下ると、このような「同害報復」の考え方は、より人道的で洗練されたものへと変化してゆきます。

例えば、確かに被害者は加害者が負わせた傷害が原因で死亡したとしても、被害者の側にも、医者にも行かず、不養生にしていたという事情があったという場合、被害者の死亡したことについては、果たして加害者だけが悪いのだろうか、という疑問が生ずるでしょう。これは、被害者が死亡したこと(法益侵害)についての加害者の「影響力の程度」や「寄与度」といった問題です。

また、例えば、被害者は加害者の行為が原因で死亡したとしても、加害者が故意ではなく、過失であった場合、そのような加害者に対しても、同害報復をするのが妥当なのか、という問題もあります。

こうした疑問に端を発し、そもそも人が犯罪を惹き起こすというのはどういうことなのか、ということについての分析が始まります。

人(人格)は自由意思を持っており、この自由意思に基づいて自己の身体を自在に操り、外界に働きかけます。これが「行為」です。

この行為を通じて、自己の意図した「結果」を実現させます。犯罪の場合は、この結果が法益の侵害です。

こうして、人格は、行為を媒介として、法益侵害とつながります。

そこで、この法益侵害の発端となった人格は、法益を侵害したことについて法的に非難を受けることになります。これが犯罪刑罰です。

この法益侵害から人格への法的非難に至る過程を図に描き込んでみると、次のとおりとなるでしょう。

まず「法益侵害」が因果関係を通じて「行為」に帰属します。

この場合、このような法益侵害を発生させたことについての、行為の影響力は1%から100%までいろいろな程度があるでしょう。そして、この行為がもつ法益侵害に対する影響力の程度によって、行為の「違法」の程度が決まる、と考えます。

また、このような違法な「行為」は、意思による支配を通じて行為者の人格に帰属し、これが行為者に対する法的な非難(つまり責任)の程度を決めます。

つまり、人格がその行為をその意思によりどの程度支配していたか(思い通りにしていたか)は、その意思の行為に対する影響力の程度で決まり、これが違法な行為をしたことによる行為者人格への法的非難の程度(責任の程度)を決めると考えることができます。

そうすると、この場合に行為者に科せられるべき刑罰(苦痛)というものは、行為者が発生させた侵害と等しくあるべきというよりは、行為者に対する法的非難の程度(責任)と等しくあるべきということになるのではないか、という考え方が生まれます。これが責任主義という考え方です。

責任(行為者人格に対する法的非難)がどのようにして決まるのか、ということについて、もう少し例を挙げて考えてみましょう。下の図をご覧ください。

まず、最上段の場合です。行為者の意思による行為に対する支配(影響力)が100%で、その行為による結果(法益侵害)に対する影響力が100%だとします。この場合、法益侵害の結果を仮に「100点」とした場合、この結果は100%行為に帰属するので、行為の違法性も「100点」となります。そして、その行為の違法性が100%と行為者の責任となりますので、行為者の責任もまた「100点」となります。

次に、2段目。法益侵害の結果が同じく100点でも、その結果に対する行為の影響力(寄与度)が仮に50%だとしたら、行為に対する違法評価は50点となります。さらに、この行為に対する意思支配による影響力の程度が50%であるとしたら、行為者の責任の程度は、違法行為(50点)のさらに50%である25点となります。

最後に3段目。最上段と同じく、法益侵害が100点、これに対する行為の影響力が100%のため行為に対する違法評価が100点であるとしても、その行為に対する行為者人格による意思支配の程度が5%であるとしたら、責任の程度は5点となります。侵害の程度、行為の違法の程度は、最上段と同じでも、責任の程度は3つの中で一番低くなります。

このように、法益侵害は同じ100点であっても、行為の結果に対する影響力(寄与度)の違いや、行為に対する意思支配の程度の違いによって、行為者に帰属する責任(つまり、法的非難の程度)は異なったものとなるワケです。

以上は、あくまで論理モデルですが、実際の殺人罪、過失致死罪、傷害罪などの法定刑が、この理屈に合っているかを見てみましょう。

例えば「人の死亡」という結果を100点として、その死亡に対する行為の影響力(寄与度)を100%と考えると、行為の違法性は100点となります。この点は、最上段の「殺人罪」でも、2段目の「過失致死罪」でも同じです。

しかし、殺人罪の場合は「故意」が必要であるため、行為者人格による行為に対する意思支配の程度は「50~100%」くらいでしょうか。

これに対して、過失致死罪は故意がなく、過失の場合なので、意思支配の程度はグッと少なくなり「1~5%」かもしれません。

そうすると、殺人罪の場合、責任の点数は「50~100点」であるのに対し、過失致死罪の場合は「1~5点」となります。そこで、2つの法定刑を比較すると、殺人罪の法定刑が「懲役5年~死刑」まであり、過失致死罪の法定刑が「罰金1万円~50万円」です。一応説明が付くように感じられます。

また、傷害罪(最下段)の場合は、その法益侵害の結果は、死亡(100点)よりは下がりますが、傷害には重いモノから軽いモノまでさまざまな段階がありますので、これを一応「5~70点」とします。その上で、行為の結果に対する影響力(寄与度)を100%とすると、傷害を惹き起こした行為の違法性の程度は「5~70点」となります。

そこで、この違法な行為が行為者の人格にどの程度帰属するかですが、傷害罪は故意犯の類型だけでなく、結果的加重犯(故意犯と過失犯の結合形態)の類型もあります。そのことを考え合わせる意思支配の程度は事案により「20~100%」くらいと考えることができそうです。

そうすると、最終的な責任の程度は「1~70点」となります。傷害罪の法定刑が「15年以下の懲役又は50万円以下の罰金」とされており、「罰金1万円~懲役15年」という法定刑とされていることも、かなり合理的であるように見えます。

こうして、現在では、責任主義の考え方に基づき、等しくあるべきなのは、行為者の発生させた法益侵害と行為者が受けるべき刑罰(苦痛)ではなく、行為者の責任(犯罪をしたことに対する法的非難)と行為者が受けるべき苦痛(刑罰)であると考えられるようになっています。

そして、責任主義は、罪刑法定主義と並び立つ、近代刑法のもう1つの大原則と位置づけられています。

そうすると、冒頭の問いに対する答えは、次のようになるでしょう。

3 罪刑法定主義・責任主義の法的根拠

ところで、罪刑法定主義や責任主義が近代刑法の大原則であるとしても、これらは、現代の日本の法律、法体系のどこに根拠をもつものなのでしょうか?

いかに「近代刑法の大原則である!」などと威張ったところで、現在の日本の法の中に根拠がなければ、立法や行政、さらには司法であっても、このようなルールに従わなければならない理由はありません。

では、罪刑法定主義や責任主義は、日本の法のどこに根拠をもつのでしょうか?

結論的に言えば、日本国憲法31条にその根拠を求めることができます。

憲法31条は「適正手続条項」とか「デュー・プロセス条項」などと呼ばれるものですが、次のように規定しています。

日本国憲法
第31条
 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

この条項は、人々に対して「法律の定める手続」によらなければ「刑罰を科せられない」ということを保障しています。つまり、国家刑罰権の行使を規制するものです。

では「法律の定める手続」とはどのようなものでしょうか?

古くは、刑事手続法が法律(国会の制定する法規範)によって規定されること(法定)を要求していると狭く解する説もありましたが、現在では、このように狭く解する説はありません。

この第31条による刑事手続が「法律の定める手続」によらなければならないという要求は、刑事手続法(=刑事訴訟法)だけでなく、刑事実体法(=刑法)の法定をも含んでおり、さらには、これらの法が、制定されているだけでなく、内容が適正であることも含んでいる、という解釈が、現在では一般的です。

つまり、憲法31条は、

  1. 刑事実体法(刑法)の法定

  2. 刑事実体法(刑法)の適正

  3. 刑事手続法(刑事訴訟法)の法定

  4. 刑事手続法(刑事訴訟法)の適正

という4つの要求を含むものと解するのが、現在の憲法学における通説的な見解といえます。

そして、刑事実体法の法定の要求は、まさに「罪刑法定主義」を要請するものであると言えます。

また、刑事実体法の適正の要求は「責任主義」を要請するものと解されます。そこで、犯罪と刑罰が法律によって定められていたとしても、その内容が適正でなく、とりわけ「罪刑の均衡を欠く」ような場合には、憲法31条に基づく刑事実体法の適正の要求に反するものとして、憲法違反になると考えられるというわけです。

4 憲法学的なアプローチ

ところで、先ほど「Q2」の問い、つまり「お年寄りを甘やかす罪」が法的に許されない理由は何か、という点につき、「責任主義に反するから」という理由を示しました。

そして、いま述べたように、この責任主義は、憲法31条という憲法の条項に根拠をもつことになるので、これは究極的には憲法31条違反ということになります。

しかし、憲法学的に考えれば、この「お年寄りを甘やかす罪」が許されない理由は、むしろ「憲法13条に反するから」という理由のほうが端的かもしれません。

日本国憲法
第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

この憲法13条は、包括的人権規定と呼ばれ、憲法の人権カタログに個別的に示されていない人権についての根拠条文とされます。

そこで、人々が好きに行動する自由は、この憲法13条の示す「幸福追求に対する国民の権利」に含まれるものと解されます。お年寄りに席を譲る権利も、憲法の人権カタログには明記されていませんが、この13条に基づき憲法上保障されると解されます。

憲法によって保障された人権を制限するためには、国会の制定する法律によって行われること(法律主義)に加え、その制限が「公共の福祉」に合致している必要があります。そうでないと、この人権制限は正当化されず、人権侵害となります。

この「公共の福祉」は、多数者の利益などを意味するのではなく、「基本的人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」と言われます。

人々は人権を持ちますが、この社会でたった1人で暮らしているわけではないので、同じ社会に暮らす他者の人権との関係で人権同士が矛盾・衝突することがあります。また、厳密に言えば、人権以外の他の憲法上の利益・価値と矛盾・衝突する場面もあるでしょう。

このような場合に、他者の人権(や憲法上の価値)との調整をするために、ある人権に対する制限を正当化する原理が「公共の福祉」です。

そこで、人々の行動を規制する法律を作った場合、その法律はこの「公共の福祉」の観点から正当性が判断され、正当でない場合は憲法違反とされます。この点、刑罰法規(刑法)は、もちろん人の行動を制限する法律ですから、制定された刑罰法規が正当化されるためには、その制限が公共の福祉に合致している必要があります。

そして、ある法律が「公共の福祉」に合致しているかどうかは、

  1. 立法目的の正当性

  2. 規制の必要性

  3. 規制手段・方法の相当性

などの観点から、立法事実(その法律の合理性を支える社会的事実)に照らして、判断されることになります。

さて、ここで話題を「お年寄りを甘やかす罪」に戻しましょう。

この法律の場合、責任主義に基づく「罪刑の均衡」の問題以前に、こんな行為を処罰する必要があるのか、が問われる必要がありそうです。つまり、そもそも「お年寄りに席を譲る」という行為が、その社会に暮らす誰の迷惑にもならないようなら、何のためにそんな法律を作るのかという「立法目的の正当性」がまず問われることになるでしょう。そして、おそらくこの時点で正当性は認められないでしょう。

その意味で「お年寄りを甘やかす罪」が許されない理由は何か、と問われた場合、憲法学的に答えるならば、憲法31条の適正手続条項違反を持ち出すよりも前に、憲法13条に反するという解答のほうが端的な解答と言えるでしょう。


第3 行為の違法性の判断

1 形式的違法と実質的違法

以上、見てきたように、ある行為を犯罪として処罰するためには、形式的にその行為を犯罪とする法律を作るだけでは充分でなく、実質的にも、そこには、その行為が違法であり、その行為をした行為者に法的非難を向けることができる場合であることが必要だということがご理解いただけたかと思います。

では、行為の違法性は、どのように判断されるのでしょうか?

違法という言葉には、2つの意味があります。

1つは、形式的違法です。これは、法に違反するという意味です。例えば、ある行為を禁止する法律が存在し、その法律に違反してその行為をすれば、その行為は形式的には違法です。これがここにいう「形式的違法」の意味です。

しかし、ここで話題にしたいのは、そういうことではありません。ある行為を法律で禁止する前提として、その行為が社会にとって害悪であるか否かということを問題としたいのです。これが実質的違法の問題です。

このように行為が実質的に違法であるか否かは、刑罰法規を制定する前に問われなければならない問題であるとともに、刑罰法規が制定された後に、形式的にこれに違反する行為があったとしても、それが実質的に違法でなければ(=実質的に違法であるための要素を備えなければ)、はやりその行為を処罰することは、不当となると考えられるものです。

そこで、ここでの考察の課題は、違法性の実質はどのようなもので、違法性を基礎づける要素にはどのようなものがあるか、ということを解明することにあります。

2 行為のもつ3つの側面

「違法」は行為に対する評価ですが、私たちは、日常生活でも、行為について「善い行為」「悪い行為」などという評価を下しています。

そして、そのように日常、行為の善し悪しを評価する際には、3つの側面から評価することが多いでしょう。その3つとは、

  1. 主観的態様

  2. 客観的態様

  3. 結果

の3つです。

主観的態様とは、行為者がその行為をするにあたり、どのような認識で行為したのか、どのような意図で行為したのか、などの行為者の内心の状態をいいます。例えば、幼い子が、自分のわずかなお小遣いを貯めて、恵まれない人のために寄付をしたという場合、金額的には小さなものかもしれませんが、その子の純粋な気持ちを私たちは高く評価し、その行為は善い行為であると判断するでしょう。これが主観的態様です。

客観的態様とは、その行為をするについての形態、方法などの外形的な特徴です。私たちは、日常「行儀がよい」「礼儀をわきまえている」とか、逆に「礼儀を知らない」「態度が悪い」などと人の行為を評価することがあります。つまり、その人がその行為に込めた思い(内面)とは切り離して、行為の外形的な特徴や手段、方法がその行為の善し悪しの評価につながることがあります。これが客観的態様です。

結果とは、その行為がどのような事態の変化をもたらしたか、というその行為の外界に対する効果です。例えば、その行為が誰かの命を奪ったということであれば、その行為を悪い行為と評価し、その行為が誰かの命を救ったということであれば、その行為を善い行為と評価することはよく行われます。例えば、有名なユーチューバーが、困っている人たちのために莫大な金額の寄付をした場合、そのユーチューバー自身にはさまざまな思惑や動機、意図、狙いがあったとしても、多くの人を救うというその行為の効用から、それは善い行為と評価されるでしょう。

このように、私たちは、日常生活上、人の行為をさまざまな形で評価しますが、その際には、行為のこの3つの側面から全体的・総合的に評価し、判断していることが多いと思います。

3 行為無価値と結果無価値

そうすると「違法」も、行為に対する評価ですから、私たちはこの3つの側面に目を向けて、全体的・総合的に判断し、評価すべきでしょうか。

刑法学では、このような行為のもつ3つの側面のうち、どの側面に注目して行為の違法性を判断すべきかということがこれまで議論されてきており、大別すると次のような5つの見解が主張されています。

④の主張は「結果反価値論」とか「結果無価値論」と呼ばれている説です。「物的違法論」と呼ばれることもあります。この見解は、行為からもたらされた結果の側面にだけ着目し、結果が法の保護する価値に反する場合に行為を違法と判断する見解です。ですから、呼称としては「結果反価値論」という呼び方のほうが適切だとは思いますが、現在すでに「結果無価値論」という呼び方のほうが広く使われるようになってしまっています。

これに対して、①②③は「行為反価値論」または「行為無価値論」と呼ばれる見解です。最も純粋なものは、行為の主観的態様にだけ目を向ける①で「志向反価値論」などと呼ばれていますが、現在では支持者はいないでしょう。

②は、行為の主観的態様と客観的態様に目を向ける見解で、結果は考慮にいれません。「一元論」と呼ばれる見解ですが、この説も現在の日本では支持者はいないのではないかと思います。

③が判例・通説の考え方と言われており、行為反価値論のうち「二元論」と呼ばれている見解です。「二元的人的違法論」などと呼ばれることもあります。この見解は、行為反価値的要素(主観的態様・客観的態様)だけでなく、結果をも考慮に入れて行為の違法性を判断します。その意味では、行為を全体的・総合的に判断する見解といえます。

なお、⑤はちょっと変わっている見解で「跛行的結果反価値論」といいます。結果反価値論をベースにしながら、結果がある場合でも、客観的行為態様を違法性を減少させる方向でのみ機能させるという見解です。世の中には、危険ではあるが、社会的な便益があるために許容されている行為というものがあります。これを「許された危険」と言いますが、この「許された危険」を結果犯価値論だけで説明することは至難です。跛行的結果反価値論はこれを説明しやすいのが利点です。この点については、また触れることもあるでしょう(なお、私はこの説を支持しています)。

4 総合的判断か分析的判断か?

現在、違法性の実質をめぐって主として対立しているのは、③行為反価値論(二元論)④結果反価値論です。

この2つの見解は、結局のところ、行為の違法性を判断するにあたって、行為のもつ3つの側面(主観的態様、客観的態様、結果)を全体的・総合的に評価して判断するか、それとも、行為がもたらした結果という側面だけに着目して一面的・分析的に判断するか、という対立だと言うことができます。

そうすると、みなさんは、どちらのほうが適切だと思いますか?

大学の授業などでも、このように問いかけると、ほとんどの学生は
「全体的・総合的に判断するのがよいと思う」
と答えます。

そこで、総合的判断と分析的判断との違いと利害得失を知るために、次の事例について考えてみましょう。

刑法の問題ではありません。いわば「地方創生」の問題です。

さて、みなさんは、どっちがどっちに適切だと思いますか?
もちろん、どちらがどちらに適切かは、一目瞭然でしょう。

ところで、審査員であるみなさんは、スタッフから
「水着審査をしますか?」
と尋ねられました。みなさんは、彼女たちの水着審査をしますか?

さて、この2つの選考会において、みなさんが「沖縄のキャンペーンガール」については右側の女性が適していると判断し、また、その審査の際、水着審査が必要と考え、逆に「もち米むすめ」については、左側の女性が適していると考え、その審査の際、水着審査は不要と判断したとしたら、その理由は一体どこにあるのでしょうか?

おそらくは、次のように考えたのではないかと思います。

沖縄ガールの場合は「太陽サンサン! みんな、キレイな沖縄の海で遊ぼうよ」というのがキャンペーンのコンセプトでしょう。そうだとすると、海水浴やマリンスポーツなどをする、活動的なイメージの女性のほうがよいだろうということになるでしょう。髪は茶髪でもかまわないし、肌は日焼けしていても問題ない。もちろん、勉強が苦手だとか、下戸だとか、男性経験がない、とかもまったく関係ない。ただ、万一、目立つところに大きなタトゥーとかが入っていたりすると、水着でのポスター撮影する際に問題が起こるかもしれないから、水着審査はしておいたほうが無難かな……と。

これに対して、もち米むすめの場合は「東北の山村で温泉にでもつかりながら、古き良き日本を思い出してのんびりしようよ」というのがコンセプトでしょう。しかも「もち米すむめ」と言うからには、古き良き日本ともち米を連想させるような黒髪で色白の女性のほうが適しているだろうと考えられます。特に温泉好きならちょうどいい。スポーツが苦手とか、酒豪とか、男性経験多数というのは、特に関係がない。別に、水着での仕事もないから、水着審査なんかしなくてよいだろう……ということになるでしょう。

こんな風に考えて、右の女性は「沖縄ガール」、左の女性は「もち米むすめ」に適していると判断し、沖縄ガールについては水着審査必要、餅米娘についてはこれを不要と判断したのではないでしょうか?

この判断の過程を分析すると、どちらの場合も、コンセプトによって着目する点が異なってくるということに加え、無関係な事柄も存在していることが解ります。例えば、酒を飲むかとか、男性経験の数などは、どっちでもよいというような情報と言えます。

他方、ここには記載がありませんが、どちらの場合も、応募してきた女性が「私、簿記2級です!」とか「ワードとエクセルが使えます!」などとアピールしても、まるで結果に影響を与えないことが強く予想されます。おそらく審査員から「だから、何?」と言われてしまうでしょう。

しかし、これが弁護士が事務所のスタッフを募集する場合であれば、話はまったく変わります。むしろ「ワードとエクセルが使える」ということが採用の絶対条件になっていたりするでしょう。採用面接のときに、思わず容姿に惹かれてしまい、パソコンを使えない人を採用してしまったりすると、後々苦労することになります(※私のことではありません)。

さて、このような分析から明らかになるのは、次のことです。

沖縄ガールにしても、もち米むすめにしても、ある目的があって募集しています。そこには、まず「考え方」があります。そして、その考え方からどんな人を採用したいかという「判断基準」が導かれます。そしてその「判断基準」から、応募者のどこに着目して判断すべきかという「判断材料」が決まります。

5 倫理規範違反説と法益侵害説

以上に述べたことは、行為の違法性を判断する際もまったく同じです。

そもそも刑法上の「違法」とは何なのかという考え方が出発点となります。ここには大別して「倫理規範違反説」という考え方と「法益侵害説」という2つの考え方とがあります。

倫理規範違反説は、違法とは、国家社会的倫理規範に違反することであると言います。また、社会的相当性から逸脱することであるという表現もあります。

他方、法益侵害説は、違法とは、法益を侵害し、または法益侵害の危険を惹起することであるといいます。

そこで、このような「違法」に対する考え方が決まると、そこから「違法性判断の基準」「違法性判断の材料」が導かれることになります。

倫理規範違反説の立場からは、その行為が違法か否かは、その行為が国家社会的倫理規範に違反したか否かが基準となります。

そうすると問題となるのは「何が倫理か?」ということですが、これはなかかに難問です。「倫理とは人の倫(みち)である」と言っても、それだけでは内容はよくわかりません。ただ、それでも、倫理に反するか否かということが、行為の結果だけでは決まらないことは明らかです。倫理に合致するか否かということについては、行為者が行為に込めた思いが重要な影響を与えるであろうことは否定できないでしょう。そうすると「倫理に違反したか否か?」を判断するためには、結果だけでなく、主観的・客観的行為態様についても目を向けなければならないということになりますから、倫理規範違反説からは行為反価値論(二元論)が導かれることになります。つまり、全体的・総合的判断へとつながります。

これに対し、法益侵害説の立場からは異なります。行為が違法か否かを決めるのは、その行為が法益を侵害したか、または法益侵害の危険を惹起したかということだけです。そうすると、これは行為のもたらした結果の側面だけに着目すればよいし、それ以外の側面は関係がないということになります。そこで、結果反価値論が導かれます。結果の面だけに目を向けた分析的判断こそが正しいということになります。

そうすると、問題は、刑法上の「違法」とは何かです。つまり、倫理規範違反説と法益侵害説とどちらの考え方を支持するかです。

そして、この考え方を分けるのは「刑法はそもそも何のためにあるのか?」という刑法の目的論です。

極めてザックリと言えば、「刑法は最低限度の道徳である」という考え方と、「刑法は法益を保護するためにある」という考え方があります。言うまでもなく、前者の考え方を採れば、倫理規範違反説につながり、後者の考え方を採れば、法益侵害説につながります。

もっとも、以上に述べたことは、大きな学説の対立に対していわば「大鉈を振るった」ものであり、実際にはもう少し複雑な対立となっています。特に近年の行為反価値論は、モラリズムを嫌い、脱倫理化の傾向にあるようです。


第4 責任の判断とその基礎

次に「責任」について考えてみましょう。

刑法上の責任は、行為者が違法な行為をしたことに基づく、行為者人格に対する法的な非難です。

では、どのような要件が揃ったときに、違法行為をしたことについて行為者を法的に非難することができるでしょうか?

私たちは、日頃から、自由意思に基づいて、自己の身体を自在に操作して行為を行い、このような行為を通じて外界を操作することで、自己の意図する結果を実現しています。

例えば、ボールを投げて箱の上の花瓶を倒すとすれば、次のとおりです。

その際、人は、

  1. まず自己の行為とそこからもたらされる結果を予想し

  2. その結果に対する是非・善悪を判断したうえで

  3. 自己の身体を操ってその行為をする

という意思決定をし、行為に至ります。

そして、そうして行った行為の結果、第1の「結果が予想どおり」の場合もあれば、「予想外だった」という場合もあるでしょう。そして「結果が予想外」の場合も、「慎重に考えれば結果を予見できた」という場合もあるでしょうし、「結果を予見することは不可能であった」という場合もあるはずです。

また、是非善悪の判断についても、行為者にその判断能力があって、判断が可能であった場合もあるでしょうし、判断能力が減退していて判断が困難であった場合、さらには判断が不可能な場合もあるでしょう。

さらに、自己の身体の制御にしても、自己の思いどおり自由に制御できた場合もあれば、制御が困難であった場合、また、場合によってはいろいろな事情により制御ができなかったという場合もあるかもしれません。

そして、このような行為時の事情は、行為者がその自由意思により、どの程度、外界を行為を通じて支配できていたかということ影響します。そして、こうした「意思支配の程度」が責任の量を決めることになります。

つまり……

  1. 認識・予見の有無や可能性

  2. 是非弁別能力の有無・程度

  3. 行動制御能力の有無・程度

責任の基礎をなし、その量に影響を与えます。どれか一箇所でも、困難や不可能などになれば、そこがいわばボトルネックとなって、責任の程度を引き下げることになります。

それは、このような事情によって、反対動機(この行為は違法だからやめようと思いとどまる動機)が形成される可能性やその容易さが変わるからです。

つまり、反対動機の形成が容易であるにもかかわらず行為者があえて行為に出たとなれば、行為者に対する非難の程度は大きくなりますが、反対動機の形成が困難であれば、非難の程度は小さくなり、さらに、反対動機の形成をまったく期待できない状態となれば、その行為を選択したことに対する行為者への非難はゼロになります。

これが責任の構造です。そして、第1の問題が「故意/過失/無過失」の問題であり、第2、第3の問題が「責任能力」の問題です。

なお、上の図で「反対動機形成の可能性」に影響を与える要素として表示されているのは「故意・過失」と「責任能力」ですが、それ以外にもこれに影響を与えるとされている要素はあり、このほかに「違法性の意識の可能性」「適法行為の期待可能性」(行為状況の正常性)という要素が責任要素とされています。


第5 犯罪論の体系

1 犯罪の定義

では、これまでに学んだ知識を総動員して、犯罪とは何かということについて考えてみましょう。

犯罪とは、構成要件に該当する違法かつ有責な行為と定義されます。

有責とは「責任が有る」つまり、行為者人格に責任が帰属するという意味です。

では、この定義は、どういうことを意味しているでしょうか?

2 構成要件該当性

まず、構成要件ですが、これは、刑罰法規の条文に規定されている犯罪のカタチ(定型)です。

犯罪にはたくさんのものがあり、それぞれ異なったカタチをしています。その中でも、結果犯(構成要件要素として「結果」をもつ犯罪)の最も簡素な構成要件は、行為、結果、因果関係、故意または過失の4つで構成されています。なお、構成要件要素としては、行為は「実行行為」と呼ばれ、故意・過失は、それぞれ「構成要件的故意」「構成要件的過失」と呼ばれます。また「結果」も「構成要件的結果」と呼ばれることもあります。

  1. 実行行為

  2. 結果(構成要件的結果)

  3. 因果関係

  4. 構成要件的故意/構成要件的過失

構成要件では、犯罪の違法性・有責性を積極的に基礎づける要素が、構成要件要素として規定されています。

実行行為、結果、因果関係は「違法性」を基礎づけ、構成要件的故意や構成要件的過失は「有責性」を基礎づけていると言えます。

3 違法性と違法性阻却事由

つぎに、犯罪の成否を判断する際の例外的な要素について検討しましょう。

まず、違法性ですが、行為者が実行行為を行い、結果を発生させたとしても、次のような事情がある場合には、実質的には違法ではない、ということになると考えられます。

第1は、構成要件的結果が発生したけれども、実は、法益侵害が発生しなかったという場合です。これがどのような場合かについては、追々検討することになります。ここでは、そういう場合があるということだけ、頭の隅に入れておいてください。法益の欠如といいます。

第2は、実行行為が構成要件的結果を発生させ、法益侵害を発生させたが、その行為が同時に、何かの別の法益を保全したため、全体としての行為の評価を考えた場合には、いわば「差引きゼロ」となる場合です。優越的利益または同等の利益の存在といわれます。

第3は、実行行為が構成要件的結果を発生させたものの、その行為が従うべきとされている社会の準則に従っていたため、社会的相当行為と評価され、違法ではないとされる場合です。社会的相当性による正当化です。

このように、構成要件には該当するものの、実質的には違法でないと評価される事情を「違法性阻却事由」または「正当化事情」といいます。

違法性阻却事由には、正当防衛緊急避難正当業務行為法令行為など、条文によって規定されているもの(法規的違法性阻却事由)もありますが、それ以外でも、上記の第1から第3のいずれかの事情が存在することによって実質的には違法でないとされる場合があり、これも違法性阻却事由とされます(超法規的違法性阻却事由)。

4 責任と責任阻却事由

次に、違法阻却と同様、責任にも、例外的に阻却される場合があります。これが「責任阻却事由」です。

例えば、心神喪失刑事未成年といった事情は、責任能力なしとして、責任を阻却します。

また、行為者が、違法性阻却事由があると思って行為したが、実は違法性阻却事由にあたる事実はなかったという場合が「違法性阻却事由の錯誤」で、この場合は責任は阻却されませんが、故意が阻却されます。そのため、故意犯の成立は否定されます。そこで、このような場合をフォローする過失犯処罰規定がない場合は、犯罪不成立となります。

そのほかに「違法性の意識の可能性がない場合」は責任が否定されるとされており、また行為状況が異常であるために行為者に対して適法な行為に出ることを期待できない場合も「適法行為の期待可能性なし」として責任が否定されるとされています。

以上をまとめると、次の図のとおりとなります。

5 犯罪の成否の判断の手順

犯罪は、ここまでで述べたような要素によって成り立っています。

そこで、ある事案について犯罪の成否を判断する際には、これらの要素の存否を1つひとつ確認してゆくことになりますが、その手順は、犯罪の定義に従って、次のような順序で判断します。

そこで、大学の刑法の試験や司法試験などで何らかの事例問題を解く場合には、この思考過程に従って、構成要件該当性、違法性、有責性の順に判断し、最終的な結論(その犯罪の成立/不成立)を導き、解答します。

この手順を間違えると、結論がどうあれ、大きく減点されることになります。これが刑法学において特徴的なところです。


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