三単現の-sとか複数の-sとか、なくても通じるのに、なんで研究するの?なんで教える必要があるの?
研究としては、L2での文法処理能力の解明と習得メカニズムの解明が目的です。
言語ごとに個別文法としてどのように普遍文法が具現化されるかが違います。(それは話し言葉としての母語の場合ですが)
母語の文法処理能力とその習得メカニズムの解明が言語学の中核的課題の一つとしてある一方で、母語とは違う第二言語も習得して処理して運用できるようにはなりますが、母語と同じようにはならない。同じではないけれども「ある程度」習得し「ある程度」運用できるようになります。
母語ではないのに、どうしてそれができるのか。しかし、できるといっても、母語と同じようにはできない。この「矛盾」「ギャップ」の解明が第二言語習得研究の最大の課題です。
ですので、文法形態素はできなくても話は大体通じるから問題ない、という話ではありません。
また、テストに出るからできるようにしないといけない、という話でもありません。
教育の話になると、それは教育の目的と現実問題がかかわってくるので、正解はありません。結局のところ、人による、場合による、ということになります。逆に言えば、教育の現場において、何を目的とするか、を明確にして、その目的達成のために対策を取るという問題解決をするしかないです。
もちろん、就職のためにTOEIC900点取らないといけない、とか、大学受験のために英語で得点を稼がないといけない、ということを現実問題として取り組む必要がある人もいるでしょう。そういう人はそういう人で、いかに効率的に900点取れるようにするか、こそが必要な問題解決です。それならそれで、そうしてあげるのが教師の役目となります。それはそれで、間違っていることではなくて、むしろ、まさに問題解決をしているという点で「正しい」ことです。
研究の目的と教育の目的は同じではないです。
重なることもありますが、重なるとは限りません。重なると一石二鳥ということもありますが、重ねないといけないということはありません。むしろ、無理に重ねようという方が無理があります。
自分が教えている生徒にいかに英語力をつけるか、という問題と、第二言語習得研究のテーマとを最初から重ねようとしないほうが、どちらもうまくでしょう。最悪のケースは、無理をして生徒の英語力もつかず自分の研究もまとまらないという事態です。ラッキーなケースは、第二言語習得研究の成果として確固とした事実が明らかになったら、それを自分の英語教育の指導の一部に取り入れてよりよい授業を行うことでしょう。
では、三単現の-sとか複数の-sとか、冠詞のaとtheとか、なくたって大体通じるから教えなくてもいいんじゃない、という点について。
試験に出るからできるようにならないと、というのは問題の回答にはならないです。日常生活で困るかどうかという問題と、試験に出るかどうかという問題は、別問題です。
なくても大体通じるから教えなくてよい、ということではなくて、また、試験に出るから教えないといけない、ということでもなくて、英語という言語を学ぶにあたって、それらは英語という言語の仕組みの一部、システムを構成する一部なので、英語という言語を学ぶ際にはそれも学ぶ対象になるということです。
それが、習得しにくいとか、なくても大体通じるとか、試験に出るとか、そういうことは、英語を学ぶ中の一つの側面としてそうした特徴があり、それを指摘することはできますが、それなしで英語という言語をおしえること、学ぶことはできません。
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杉浦正利