幼気【♯5】
「おー、麦ちゃん!おおきくなったなぁ!」
浩二さんの元へ麦が飛び込んでいく。私にも優しかった浩二さんは、私にむけてくれた以上に麦に愛情を持って接してくれる。余計なことばかり言うが、母も母なりに麦には優しい。どこまで解っているのかわからない笑顔で、料理を沢山作っていた。
あの日、浩二さんから母の認知症を打ち明けられた次の日の夜、麦が寝てから和樹にその事を話した。
「そうか…。お義母さん心配だな。」
「うん…。でもまだどうするべきなのか、答えが出なくてさ。」
「俺は浩二さんの言ってくれてることわかるけどな。」
「うん。自分でもさ、介護をする覚悟なんて出来てないんだけど、でもそんなの甘えなんじゃないかとも思うし、でも介護で追い詰められて手を上げたりしないかっていう心配もあるっていうかさ。麦のお尻は拭けても、お母さんのお尻を拭くことなんて出来るのかな…。でも、施設に入れるとしたら、それを他人にやらせることになるわけじゃない?身内だって出来ない事を他人にやらせるなんて、それこそ人としてダメなんじゃないかと思っちゃうんだよね…。」
「他人だから出来ることってあると思うよ。だからこそ介護士さんの給料はもっと高くなるべきだしそれは日本の課題だと思うけどさ。子供は親の為に産まれた訳じゃないんだ。『老後の親の面倒は子供が見るべき』という価値観はもう古いよ。一番大切なのは、お義母さんや家族が幸せに過ごせる形や距離を探る事なんじゃないかな。」
その距離がやっと見つかった所だったのだ。ただ、それはお互いに健康だった時の話だ。たった一人の血の繋がった親の介護を放棄するなんてと、良心の呵責を感じてしまう。罪悪感を感じながらも他人に押し付けるのか、それとも感情を押し殺して介護をするのか。どちらにしても地獄に思える。
「そんなにすぐ決めなきゃいけないのかな。」
「え?」
「だって浩二さんは現時点で元気な訳だし、とりあえずは浩二さんに任せて、たまに遊びに行って少しずつ手伝って見ればいいんじゃない。やってみなければわからないじゃん、浩二さんも俺たちも。施設を完全否定してしまうと、浩二さんがキツくなって施設に頼りたいと思ったときにその可能性を潰してしまうことになると思う。まずは受けられるケアは受けて、俺らが心身健康でいて、お義母さんというよりは浩二さんが困ったときに相談に乗れるような体制を取っておくのがいい気がするな。」
「うん…そうかもね。」
「わかってる?大切なのは浩二さんと真弓が心身共に健康でいることだよ?」
“心身共に健康でいること”がとても難しいのだと大人になってから学んだ。人生はいつも試練が襲ってくる。少なくとも私の人生はそうだった。和樹もそうだ。幼い頃に母親を亡くし、男手一つで育てられた。酒豪だったお義父さんは肝臓を悪くし、ここ数年で何度も入院をしている。色々と苦労してきた和樹の言葉には説得力がある。きっとだからこそ、私達家族のことを大切にしてくれているのだろう。
今、一番守りたいものは我が子だ。麦に祖父母とどう関わらせるのが良いのかを考えようと和樹と話し、麦が望むなら会いに行こうということになった。
正月には帰省する予定はなかったが、麦が行きたいと言ったので三人で一泊することにした。手を洗い、ご馳走を前にキラキラとした笑顔で食卓に座る麦を見て母は嬉しそうに支度をしているが、私や和樹には挨拶もしない。そんなことを気にしていたらこちらがもたないので浩二さんと雑談を交わす。
「菜津子さん、もういいから一旦座って食べよう。」
浩二さんが声をかけるがなかなかこちらに来ない。
「浩二さん、いいよ。食べよう。」
「…そうするか。頂きます。」
「いただきまーーす!!」
大きな声で麦が言うとあれもこれもと手を付ける。
「こら真弓!落ち着いて食べなさい。ご飯は逃げないんだから。デザートに苺もあるからね。この時期の苺は高かったんだから。」
「おばあちゃんまちがえてるー!真弓はママだよ!」
母の間違いに大人はピリッとしたが、麦は気にする様子もなくケラケラ笑っている。麦にはまだ伝えていないのでわからないのも無理はない。母には私と和樹は見えていないようで、浩二さんの言う、“あっちの世界”に居るようだった。
その後も時折浩二さんと会話をしながら麦の世話をしていた。私の名前を呼びながら、私ではない人を見つめていた。傍から見ればその三人はとても幸せそうで、幼い私が夢見た世界だった。でもそこにいるのは私ではないし、母の中では浩二さんも浩二さんとして存在していない。この実体のない三人はゆらゆらと陽炎の様に揺れていた。
母にこんな面があったという驚きと、自分には向けられなかった悲しみと、母から逃げてきた悔しさと色んな気持ちでぐちゃぐちゃになりそうだった。そんな三人を見ていることができず俯いていると私の前にお茶が差し出された。
「大したお構いも出来なくてごめんなさいね。娘も小さくてまだまだ目が離せなくてねぇ。騒がしくて申し訳ないけどゆっくりしていってね。」
近所の人とでも思われているのだろうか。母が淹れてくれたお茶には茶柱が立っていた。私なりに調べたところによると、認知症の人の言うことを否定してはいけないらしい。まだまだ不安定な母の記憶は、今日のうちに戻ることはあるのだろうか。
一通り料理を出し終わると、疲れたのか、また「庭の掃除をしてくる」と部屋に戻ってしまった。夕飯時も同じように母は“こちらの世界”に帰ってくることはなかった。流石に麦も不思議そうにしており、お婆ちゃんは記憶がなくなってしまう病気なのだと説明した。どこまで理解できたのかはわからないが、「わかった。」と一言答えただけだった。
次の日、この状態で長居するのも辛く、朝食後すぐに家を出る事にした。和樹は浩二さんと晩酌しながら色々話したようだが、私は浩二さんに気の利いた言葉も掛けられず、その後ろめたさから麦の手を引いて早々と玄関に向かった。
「真弓、いい子にしてるのよ。わがまま言って困らせないようにね。すみませんがお願いします。」
私に頭を下げる。親戚の家に小さな真弓を預けているつもりらしい。支度をしなくちゃ、と、仕事にでも出掛ける準備をしようとしている。浩二さんがすまなそうに私に笑いかけ、「じゃあな」と麦の頭を撫でる。
「おばあちゃん!」
麦が母を呼ぶ。自分に孫がいるとは思っていないはずだが、麦の大きな声に思わず母は立ち止まりこちらをみた。
「おばあちゃん!お婆ちゃんの娘は麦じゃないよ!ママだよ!それだけは忘れちゃだめだよ!」
真っ直ぐに母を見て麦が言う。
「昨日の夜、もしママが麦のこと忘れちゃった時のこと考えたんだよ。そしたら凄い悲しくなったよ。だからおばあちゃんはママのこと忘れちゃだめなんだよ!」
そんなことを言っても仕方ないのだ。仕方ないけれど…。自分でも気付かなかった気持ちを代弁されて戸惑っていると、横で浩二さんが目頭を抑えていた。小さい頭でした“想像”が母にどう響いているのか、表情からは読み取れない。
「大丈夫だよ。何回も忘れても、麦が何回も教えてあげるよ。おばあちゃんがママのこと忘れないように、いっぱい遊びに来るよ!」
ね、と私の顔を見る。
「うん。また来るね、お母さん。」
母は無言だった。
「麦ちゃん、ありがとな。」
浩二さんが麦を抱きしめる。
「じゃあ、行こうか。」
和樹が麦の手を取り先に歩き出した。
「何か困ったことがあったら連絡してね。また近々来るよ。」
「まあ、あまり無理しなくて良いけどな。
それにしても、麦ちゃんは真っすぐ育ってるな。」
「…うん。私の娘とは思えないよ。しっかりしちゃって。」
「お前からちゃんと引き継がれてるよ。優しい所なんか特にな。」
「そんなことないけど…もしそうだとしたら、浩二さんのおかげだよ。」
母との間に、いつだって浩二さんが入ってくれた。母の再婚相手でありながら、私の味方になってくれた。認知症になったからといって、母との溝が埋まる訳ではないけど、この人の力にはなりたい。
奥から母が出てくるとビニール袋にパンパンに詰まったお菓子を私に渡してきた。
「身体にだけは気を付けなさいよ。」
私の目を見てそう言った母は、“こちらの世界”にいるように見えた。思わず目を逸らしてしまい、今までじっくりと見たことのなかった玄関の飾りの方に目を向けると、そこには私の子供の頃の写真も飾られてあった。
「お母さんと…お父さんもね。」
溢れそうな涙を隠すために、二人に背を向けると麦と和樹を追いかけた。後ろから浩二さんの、お父さんの照れくさそうな小さな笑い声が聞こえた。和樹と目が合うと、彼は小さく頷いた。
「なにそれ、お菓子ー?」
麦がビニール袋を覗き込む。
空いている方の手を繋いで、三人で駅に向って歩き出した。
「麦、ありがとね。おばあちゃん、ママのこと思い出したみたい。」
「やったー!麦のおかげ?」
「麦のおかげだよ。」
「じゃあまた遊びに行ってあげよーっと!」
麦の手は温かい。力強いこの小さな手は、幸せな温度で私を包む。大丈夫、この子は鬼にはならない。麦は小さな私ではない。別の人間なのだ。
“なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべく沢山集めよう”
ブルーハーツの曲がふと頭をよぎった。浩二さんが特に好きで、よく口ずさんでいた曲だった。子供の頃はわからなった歌詞の意味が、時が立ち、母になった今ならわかるような気がする。
そんなふうに生きていきたい。そして、そんなふうに生きて欲しい。麦にも、和樹にも、両親にも。
答えは簡単には出ない。でもこの小さな手を守ることが、家族みんなの幸せを守ることになると信じたい。麦の幼気な心が浩二さんや母の心を震わせた時に、そう思ったのだ。
終
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