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猫とほおずき【短編小説】

熱帯夜を越えて、朝日の眩しさで目を覚ました。枕元のスマホを確認すると6時になったところだった。薄っすらとかいた汗を拭おうとしたタオルケットに見覚えがない。一瞬どこにいるのか分からなくて部屋を見渡した。子供の頃の物は大分片付けられてはいるものの、そこは確かに実家の私の部屋だった。

世の中ではこの時期を“お盆”というらしいが、蓮見家ではその文化がない。そもそもうちは親戚も少なく、付き合いも希薄だ。まず母子家庭で育ったので母方の親戚しかいない。祖父は戦争で亡くなったせいか墓がない。祖母も私が中学生の時に亡くなったが、祖父の墓がないからか、宗教的な何かなのかよくわからないことで大人たちが揉めて、結局祖母の墓がどうなったのか私にはわからない。当然、お盆にかぎらず、墓参りに行くことがなかった。

我が家も母1人子1人で、別々に暮らしている。とはいえお互い東京に住んでいるので、通常は特に何かをするわけでもないお盆に実家に帰ったりはしない。今年は母が友達と温泉旅行に行くというのに、通販で物を頼んでしまい、受け取りを頼まれて昨日から1人で泊まっている。

インターホンの音でハッとなる。ベッドでスマホを見ながらゴロゴロしていたら、いつの間にかウトウトとしてしまったようだ。玄関を開けて荷物を受け取ると、私の任務は完了した。再び時間を確認すると、まだ8時半だった。

普段は派遣で、商業施設の受付をしている。商業施設の休館に準じて私にもお盆休みが発生したのだが、33歳にもなって旦那も彼氏もおらず、友達は既に家庭を持っていたり、帰省していたりでやる事がない。唯一の任務も終わってしまった。午前指定と聞いていたが、まさか朝イチで来るとは思わなかった。お腹が空いたけれど、旅行で家を空けるからか食料がない。カップ麺というのも味気ない気がして、散歩がてら、近くの商店街に朝食を買いに出かける事にした。顔を合わせれば「彼氏は出来たのか?」「〇〇ちゃんはもう2人めが生まれたらしい、あんたはいつまでも派遣でフラフラして。」などと何百回も聞いたセリフを言われるのだろうから、少しのんびりしたら母が帰宅する前に自宅へ帰るつもりだ。

ズボンだけ履き替えて商店街へ向かっていると、ふと、二度寝をした時に見た夢を思い出した。お盆の事を考えていた延長だったからか、祖母が出てきた。私は昔の祖母の家に泊まっていて、近くの商店にメロンパンを買いに行く夢だった。祖母は私が1度メロンパンが美味しいと言った事を覚えていて、私が行くときはいつもメロンパンを用意してくれていた。もう飽きてしまってからも子供心ながら祖母の好意を無下にできず無理して食べていたから、暫くメロンパンが嫌いになってしまったのだけれど。

祖母は戦争で命を落とさなかったものの、視力を失っていた。ガソリンが目に入り、失明してしまったのだ。しかしその分聴力や他の感覚が優れていて、私が寝そべってお菓子を食べていると必ずバレて怒られた。1番近くの商店には杖も持たずに1人で買い物に行くし、私は祖母が目が見えない事を信じていなかった。祖母は伯母の家族と同居していた。伯母たちやヘルパーさんの手を借りているとはいえ、日常生活を難なくこなしているように見えていたが、私が泊まりに行ったときだけ「1人じゃ買い物に行けないから、真紀ちゃん、着いてきて。」と言って一緒に商店に買い物に行くのだった。好きなものを買ってくれるけれど、自分のせいで事故にあったりしないかとヒヤヒヤしていた。そんな私の心配を余所に、私の腕を引っ張りながらぐんぐん進んでいく祖母をみて、やはりばあちゃんの目が見えないなんてウソだ、と思ったのだった。

外に出たものの、商店街もお盆休みを取っている店が多い。仕方ないので駅前のコンビニに行こうとしたとき、足元に柔らかい毛の様なものがファサッと当たった。驚いて足を払うと、茶色と白のまだら模様の猫がこっちを見ていた。
「あぁ、猫か。びっくりした…。」と呟くと、「ごめんよ。」とでも言うように小さくニャアと鳴いて走り去って行った。

猫がいなくなると、フワッと小麦のいい匂いがした。目の前に小さなパン屋があり、ガラスの窓の中には沢山のパンが並んでいた。どうやら営業しているらしい。初めて見るパン屋だったので最近オープンしたのだろうか。朝食にぴったりの店を発見して胸が弾み、吸い寄せられるように扉を押した。

4畳もないくらいの小さな店内には、20種類はあるだろうパンがびっしり並んでいる。じっくりと選びたいところだが、狭い店内に長居するのは悪い気がして、特に目の引いた3つをトレイに乗せた。たっぷりの野菜とチキンの挟まったコッペパン、小ぶりのあんバターサンド、そしてさっき夢に出てきたメロンパン。
レジには誰もいないので、奥の厨房に向かって「お願いします。」と声を掛けると、70代位の、細身な男性が出てきた。キャップの下にハスキー犬の様な綺麗なグレーの髪が覗いている。背筋はシャキッとしていて、快活そうだ。

「はいはい、ありがとね。」
「お願いします。」
「うちは現金しか使えないけど。」
「あ、はい、大丈夫です。」
「悪いね、2年前に婆さんが亡くなってから始めた店だから、そういうのが追いついてなくて。」

東京でも西部にある古い商店街だ。キャッシュレス決済を導入する店も増えたが、稀にこういうこともあるので、現金は持ってきている。

「お盆で帰省してるの?」
「…まあ、そんなとこです。」

説明する程の理由で帰ってきていないので、思わず話を合わせた。仏壇に手は合わせたので、嘘はついていない。はずだ。

「猫は?」
「はい?」
「猫は飼ってる?」
「飼ってませんけど…。」
「じゃぁ、ちょっと待ってて。」

言い残すと店主はまた奥へ行ってしまった。奥様が亡くなっているということは1人で切り盛りしているのだろうか。他に人影は見えない。店主はビニール袋と小さな提灯を持ってすぐに戻ってきた。

「これ、うちの庭で採れた枝豆。お客さんにお裾分けしてるからどうぞ。」
「え、ありがとうございます。」
「塩で揉んでから5分くらい茹でたら食べられるから。あと、お盆の飾りにこれもどうぞ。」
「ほおずき…ですか?」
「そうそう。墓参りの花を買いに行ったら花屋に貰ったんだけど、うちには猫がいるからほおずきはダメなんだよ。持ってってもらうと助かるんでね。」
「ありがとうございます。何か色々頂いちゃって。」
「いやいや。また来てよ。」
「はい、また来ます。」

提灯に見えたのはほおずきだった。そういえばスーパーに並んでいるお盆のお供え物のセットにほおずきも入っていた気がする。普段“お盆”というものを意識していないせいか、そんなことも知らなかった。

店を出ると、袋の中からメロンパンだけ取り出して一口かじる。甘くザクザクとした生地の中は綿菓子のようにふわふわで、芳醇なバターの香りが鼻を抜ける。子供の頃祖母が買ってくれていたスーパーのメロンパンとはもはや別の食べ物だ。

メロンパンをかじりながら実家へ戻っていると、店主の言葉をふと思い出した。
「うちには猫がいるからほおずきはダメなんだよ。」
どういう意味だろうとスマホで検索をしてみると、猫にとって毒となる成分が微量入っており、猫が食べてしまうと危険な場合がある、と書いてあった。特に問題ないという説もあるようだが、確かに用心するに越したことはないだろう。

実家に着くと、絞れそうなほど汗で湿ったTシャツが気持ち悪くて、ひとまずシャワーを浴びることにした。さっぱりして冷たいお茶でも飲もうと冷蔵庫を開けると、ビールが目についた。枝豆を貰ってきたことを思い出し、店主に言われたように茹でてみる。野菜とチキンのコッペパンはトースターで軽く焼いて、全て用意できた頃には正午を回っていた。せっかくなので祖母と食べようと、仏壇の部屋へ食事を運ぶ。ほおずきを飾って手を合わせた。祖母はラジオをよく聞いていたので、アプリでラジオを流してみる。縁側の窓を全開にして、足を投げ出してビールを啜る姿は祖母に怒られそうだが、私なりの初めての“お盆”をしてみることにした。

コッペパンを完食して、少し塩気の足りない枝豆をつまみながらビールをチビチビと飲む。ラジオから聞こえる会話に時々ははは、と笑いながら、また枝豆をつまむ。贅沢な休日だ。

仏壇のあるこの部屋には、祖母の形見のラジオデッキが置いてある。視力を失った真っ暗な世界で、ラジオが唯一の楽しみだったのだろう。

祖母は私が中1の時に亡くなった。友達と下校していると母が車で迎えに来て、祖母の家に向かう車内でその事を聞いた。死因は心筋梗塞だった。突然の事だったし、初めての身近な人の死を受け入れるには私はまだ幼かった。実感が湧かないまま祖母の家に入ると、いつもと同じようにベッドに寝ていた。大人たちはバタバタと騒がしくて、想像していた雰囲気と違った。親戚内に私よりも小さい子がいたので、私は子守り役となった。葬式の準備に忙しそうな大人たちの邪魔にならないように、隅でじっとしている事が私の役割だった。大人がいなくなった隙に、祖母の手を握ってみた。いつもと変わらない顔なのに、手は驚く程冷たくて、ああ、これが“死”なんだ、と思った。気付くと涙が溢れていて、拭いたいけれど、握った手を離したくなくて、大人たちが帰って来るまで、その手を握り続けた。少ない親族の中で、唯一好きな人だった。

私は子供の頃から絵を描くのが好きで、子供絵画コンクールに入賞すると祖母はとても喜んでくれて、その絵を欲しがった。「ばあちゃんが持ってても見えないじゃん。」と言っても、「見えなくても、側にあれば感じることが出来るんだよ。」と言って聞かなかった。大学受験の時に美術の学校に入りたいと言ったけれど、母に反対されて諦めた。こんな時に祖母がいてくれたら、味方になってくれたかもしれないと思った。祖母がいなくなった家の私の絵は、当然の様に処分されていた。

絵を諦めて普通の大学を出たあと、何とか人並みの生活をしようと入った会社で、3年目に出会った上司と恋に落ちた。2年程付き合った所で、彼が結婚している事が分かった。私も知らなかったとはいえ、相手の奥さんの怒りは相当で、会社にも知れ渡ってしまった。彼は左遷され、私は退職、結婚資金のつもりで貯めていたお金は慰謝料として払うことになった。それから恋愛に懲りて、女性ばかりの派遣の会社で食いつないでいる。

今の職場の人は良い人ばかりで、関係も良好だ。独身の人も多く、よく仕事終わりに皆で食事に行ったりして、それなりに楽しい日々を送っている。でも、今日みたいな日に1人でいると急に不安が襲ってくる。今の会社も、いつまでいられるかわからない。職場の人も次第に結婚していくのだろう。何も無い私は、これから1人でどうやって生きていけば良いのだろうか。結婚したいとは思わないけど、1人でいるのも怖い。再就職しなきゃと考えながらも踏み出せずに時間ばかりが過ぎていく。いっそ死んでしまおうかと思ったこともあるが、自殺するほどの理由も勇気もなく、ただただ生きるのが面倒くさい。楽しい日もあるのに、たまに心の闇に飲み込まれてしまいそうになる。

チリン、と音がしてはっと我に返ると、猫が部屋に入り、ほおずきを咥えていた。スマホで調べた情報を思い出し、猫からほおずきを離さなければと焦った。猫はこっちをじっと見ていた。

「だめだよ。あのね、猫ちゃんにほおずきは毒かも知れないんだって。」

猫と睨み合ったまま、近づくことが出来ない。どうしよう、と思いながらも、さっきの猫かな?鈴なんてついてたっけ?などと考えていた。その隙をつくように猫はサッと外へ飛び出した。

「えっ。」

一瞬諦めそうになったが、わざわざ猫がいないことを確認してからほおずきをくれたパン屋の店主の事を思うと、やはり放おっておけない。あの猫に何かある前に見つけなければと思うと同時に走り出していた。

幸い、猫はどこかの隙間に入ることもなく、真っ直ぐ走っていた。炎天下の中ではあっという間に汗が噴き出す。喉もカラカラだ。酔った頭とサンダルを突っかけた足では思うように走れない。猫は何か意思を持っているかのように時々立ち止まってこちらを見た。ゼエゼエしながら捕まえようとするとまた走って逃げてしまう。すると猫が横断歩道を飛び出した。私も踏み出そうとすると、耳元で「真紀ちゃん!」と聞こえて足が止まった。信号を見ると赤だった。ほおずきは私の足元に落ちており、猫は横断歩道の向かい側でこちらを見ていた。ホッとしてほおずきを拾うと、誰かに「大丈夫だよ。」と言われた。知り合いが居たのかと思い周りを見回しても誰もいない。猫はニァアと鳴いて、走り去って行った。

自販機で水を買うと一気に飲み干した。自販機でも電子マネーが使える便利な時代だ。祖母の生きていた時代にあれば助かっただろうな、とふと思った。家を飛び出す時にとっさにスマホを握ってきてよかった、と思ったと同時に、窓を全開で出て来てしまったことを思い出し、仕方なく小走りで帰った。

再びシャワーを浴びながら、あの声は誰だったのだろうと考えていた。猫が咥えていたはずのほおずきには、全く傷がついていなかった。あんなに必死に追いかけたのに、まるで幻だったような、不思議な気持ちだ。

服を着て、ほおずきをもう一度仏壇へ戻す。
「ばあちゃん?」
仏壇に話しかけても、当然返事はない。でも、どうしても、さっきの声は祖母だった気がしてならないのだ。私がグダグタと思い悩む様子を見て、会いに来てくれたのではないだろうか。何とか励ましの言葉をかけようとしてくれたのではないだろうか。

「ばあちゃん。私、まだ生きてて良いのかな。まだ、良いこととかあるのかな。」

チリン、とまた、音がなった。辺りを見回しても、さっきの猫はもういない。私は確信を持って、「ありがとう。」と呟いた。

母の帰りを待たずに家を出る予定だったが、シャワーも浴びてしまったし、やはりもう一泊しよう。久しぶりに絵でも描きながら待とうか。「そんなだらしない格好して。」と祖母の代わりに怒られたあとは、残った枝豆をつまみにこの部屋で晩酌をしよう。さっきラジオで言っていたペルセウス座流星群を今夜3人で見よう。

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高橋奏
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