人間らしさの考察~態度のデカい若者と「自己組織化」のギャップ
電車に乗っていると、「なんでそんな偉そうなの?」と思う態度のデカい人に出くわすことがあります。
先日も友人から
電車の席で自分が横に座っても大股を開いたままスマホを触ってる態度のデカい若者がいたので、わざと足をぶつけて顔を覗き込むようにして怖がらせてやった
という話を聞きました。
電車を降りるまで友人はジーーーっと彼を見ていたそうで、その間、彼のスマホを持つ手はガクガクと震えていたそう。
「だったら最初からやんなきゃいいのに」と友人は言ってましたが、まあその通りというか、身から出た錆としか言い様がありません。
くわばらくわばら。
・・・と、ここまではよくある話?なんですが、そこで友人の口から意外なワードが飛び出します。
友人いわく、その若者のスマホを横目に見たら、自己組織化についての記事が表示されていたとのこと。
自己組織化が何かは今は重要ではないので割愛しますが、この話を聞いて僕は自然とこう言っていました。
「それぐらいのこと勉強してる人なら、(人としても)ちゃんとしてそうなもんなのにね」
この発言に友人も「そうよな」と応えてたんですが、この感覚、分かるでしょうか。
たとえるなら、お寺の住職が不倫する、学校の先生が痴漢する、有名俳優が麻薬に手を出す、みたいな感覚。
難しいことを電車で勉強するぐらいの人なのに、周りへの配慮もできないなんて・・・。
僕と友人はそう若者を捉えたワケです。
でもよくよく考えると、その人が何を勉強しているのかということと、周りへの配慮ができるかどうかということは関係がないように思えます。
実際、配慮のできない東大生はそれなりにいると思うし、「そりゃそうでしょ」と思う人が大半だと思うんですが、今これを書きながら僕は違和感を感じています。
東大生なのに配慮もできないなんて・・・と、どこかで思ってる。
たしかに知的レベルと配慮に論理的なつながりはないですが、僕の中では感情的に、いや、在り方として(存在論的に)つながっているのです。
形式と在り方のズレ
僕らは誰に対してであれ、「こういう人は、こうあるべきだ」という感覚があります。
それはその人の持っている物もそうだし、知識やスキル、地位や立場に対してもそうです。
例えばあなたが親だったとしたら「親とはこうあるべきだ」という親のイメージがあるはずだし、料理人だったら「料理人とはこうあるべきだ」という料理人像があると思います。
それが無いと、僕らは親にも料理人にもなれません。
親になるとは、戸籍にそう記載されることではなく、親としてどう生きるかという在り方のことだからです。
「親なのに子供のことをほったらかしにするなんて・・・」
「料理人なのに食材を粗末にするなんて・・・」
こういった僕らの嫌悪感は、形式と在り方のズレから生じています。
普段意識することはないですが、僕らには他者に対して「それに相応しい人なのかどうか」を敏感に察知する機能があるということです。
相応しくあれ
僕は、相応しさというのは自分で決めればいいと思っています。
自分は親に相応しいのか、大人に相応しいのか、社会人に相応しいのか。
それは自分が「これでいいんだ」と思えるまでやれば十分です。
だって自分の人生は自分のものですから。
ただ冒頭の若者のように、それを突き詰めることなく、形式的なことだけにのめり込む態度はいただけません。
形式に重きを置くのなら、同じぐらい在り方にも重きを置くべきです。
それが人間らしさ、僕らが人間である意味だからです。
かつて日本の武士や英国貴族がそうだったように、それに恥じない人間として振る舞うことは、僕らの当然の務め、discipline(自己規範)なのです。
周りがどう思うかはともかく、
その年齢に相応しい
その格好に相応しい
その立場に相応しい
そういう人を目指していきましょう。
そうすればそのうち、僕らに相応しい運命がやってくるはずです。
ま、気長にね。
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