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人間臭さの考察~寿司を食べながら仮想通貨を利確する虚しさ

地元の寿司屋で寿司をつまみがら、スマホ片手に暗号資産(仮想通貨)の含み益を利確する。先日そんな自分に酷く虚しさを覚えました。

カウンターの中にいる店長は他のお客さんに「独立して自分のお店を持ちたい」「4人の子供を養っている」と語り、恐らく新人であろうバイト君を熱心に指導しています。

「よっしゃ、次は前に教えたコレやってみよか!」
「お年寄りのお客さんは歩くのに時間がかかるから、自動ドアは足で止めといてあげるんやで」

店長の一言一言が心に染みます。

一方で僕は、カウンターでひとり寿司をつまみ、スマホで暗号資産チャートを確認しながら、食べている寿司の何倍もの利益を確定していました。

僕の食べる寿司以下の時給で一生懸命に働く人たちを目の前にして。


圧倒的な間違い

誤解のないよう先に言っておくと、僕も普段は彼らと大差のない収入で仕事をしています。暗号資産投資は趣味兼副業のようなもので、余剰資金を運用しているに過ぎません。

しかしそれでも、その場にいた僕の胸には言葉にしようのない穴がぽっかりあいた気がしました。人として踏み外してはいけない領域に片足を突っ込んだような、自分が人間ではない何かになってしまうような・・・そんな感覚です。

理屈としては何も間違っていないはずなのに、直感としては圧倒的に間違っている。

こう言えば伝わるでしょうか。

ここに僕らが取り戻さなければならない何かがあると思うのです。


平等はどこから来たのか

いま僕の手元には『万物の黎明』という本があります。
この本のメインテーマは平等。

平等っていつどこで生まれて本当はどういう意味なの?僕らが理想とする平等って何なの?といったことを太古の昔まで人類史を遡りながら丁寧に分析した本です。

その中で僕らが未開人と呼ぶ(森や山の奥で暮らす)人たちの話が何度も登場するのですが、そもそも平等という言葉はコロンブス以来、アメリカの先住民(未開人)と接触したヨーロッパの知識人が彼らの生活の仕方、すなわち、何でもみんなで分け合って助け合いながら生きる、という文化・スタイルを「平等」と翻訳したものだったんですね。

これは要するに、僕らが理想とする状態(平等)は何百年・何千年も前から既に未開人の人たちが実現している、ということです。

ここで冒頭の話に戻ると、僕の虚しさの輪郭が見えてきます。

寿司屋の店長やバイトくんは「平等」へのプロセスを歩み、それを体現している一方で、僕はみずから望んでそこから遠ざかっていたのです。


ぽっかり穴をあけたまま

現在の世の中の仕組みでは僕の行為は正当化されます。自分の知識と経験でもって暗号資産投資でお金を稼ぐことは、何ら悪いことではなく、むしろ羨まれることですらあります。

ですが、より広い視点・長い視点で見たときに、それは圧倒的に間違っている。いや、本来的に間違っていると言った方が正しいですね。

それでも目の前の利益を放棄できない、してはならない現実と向き合い、この矛盾と葛藤を抱えて生きていくことが、僕らに課された次の時代への試練なのだと個人的には思っています。

胸にぽっかりあいた穴を代替品で埋め合わせることなく、かといって無視するでもなく、「穴があいてるなー、嫌だなー」という違和感や虚しさを直視しながら少しでも穴が小さくなる在り方を目指して生きる。

未開人に戻れない僕らにできるのは多分そんなところです。

人間臭くありましょう。
欺瞞という敵を打ち倒すべく。


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