初恋の人にそうした小説を書いて送って、その返事を見れない
であります夜寒。
初恋は私にとっておとぎ話のようです。
おにごっこをしていてこけてすりむいて、ばんそうこうをくれたのが始まりでした。
そうして修学旅行でも、プール開放でもなんでも、彼女を意識するようになる認知の歪みが発生しました。
そして並行して二次性徴とともに発展する性欲は、彼女にはぶつけないままで育ち、性欲の虚しさの方の側面に囚われたときにいつでも偶像として思い返していました。
そして、一度、遠方の彼女を訪問した時に、ツインの部屋に泊まって何もせず、その腰骨を子宮を包むものだと捉えられないな、と見つめる。
「二倍のお金が動く」借金に意味を見出したり、いじめられたりしていた知人らと話していく中で、自分の理論武装のみじめさを気付いて、そのたびに初恋を思い出して自分は救われていく。しかし、その安易な救済を唾棄すべく彼女すら否定しようとして、結局包摂されるという話を、モデルとした人に昨夜送ると、その返信が来ていて、見れないということ。
カリンニコフの交響曲第一番の冒険のように疾走するメロディを聴いて、見れないというより見ないのは、彼女に認められる以外の柔らかい婉曲的無視が怖いからです。
好きと伝えることは、お腹を下すことである。
刺激をのみこんで取り込もうとし、反発を食らうと排出するのであります。