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「見る」ことについて考えを巡らす

昨日が最終日だったので、行ってきました。
写真家・鶴巻育子氏の写真展「ALT」

ギャラリー入り口にて撮影。

私がこの写真展のことを知ったのはInstagramの広告でした。
気になって広告をクリックしてみたところ、(ごく簡単にいうと)視覚障害のある方たちとの関わりを通じて「みること」について考えを巡らせることを目的とした写真展ということで、私の関心を引きました。

※先のリンクから、展示の詳細、鶴巻氏による作家メッセージ、YouTubeでの解説が見られます。

ただ、知った頃にはトークイベントやギャラリーツアーも終わってしまった後で、私は自分の情報アンテナの低さを呪ったわけですが、それでも展示だけでもと思い足を運んでよかったと思います。

私は視覚に障害はほぼありません。
「ほぼ」というのは、起きている時間のほとんどを眼鏡をかけて過ごすことを前提としているからで、この世に眼鏡が発明されていなければ私も視覚障害者です。

視覚障害について知ろうとしたことと言えば、
昔いた職場の後輩に色覚の障害があって、「信号の赤と青が同じ色に見える」と話していたので、私も信号機を見ながら想像の中で緑を赤に(または赤を緑に)変換してみたり、
またあるときは「見えない」ってどんな感覚だろうか?と思って散らかった部屋の中で目を瞑って動いてみたら、机の上のものが足に落ちてきて嫌になってやめてしまったりしたくらいです。
理解しようと一歩踏み出しはしたのでしょうが、そんなことでは1%も視覚障害のことを理解できないです。

しかし一方で、視覚障害の有無という白黒をつける前に、自分は本当にちゃんと見えているのだろうか?とも思うわけです。

展示会場の「セクション1」の中で視覚障害者の方を一人一人撮ったポートレートが並んでいます。
私は一枚一枚その正面に立って見るわけですが、なぜか私は目の前の人物を見ないで、隣に展示された写真を見ていたり、その人物の「視覚障害者だと分かるもの(白杖など)」を探そうとしてしまったりして、なかなか人物を直視することができない自分に気がつきました。
写真を視界に収めながらも、関係のない考え事が浮かんできたり、さらにはそんな「心ここに在らず」な自分を認めたくなくて、手を後ろに組んで作品の前をゆっくり歩きながら「ふーん」という感じで眺める動作をしてみせたりする。
さらには最近年齢を重ねて先入観が邪魔しているのか、気をつけていないとキャプションの文字で空目をしてしまいます。
そんな私は、ちゃんと「見ている」「見えている」とは言えないです。見てるようで見ていないんですね。

また、展示の中で特に大きな気づきとなったのが、会場の「セクション3」の、晴眼者である鶴巻氏と視覚障害のある方が同じ現場で撮った写真です。
私を含め晴眼者は情報の8割9割を視覚に頼って、視覚的に見えたものを撮っています。しかし視覚障害のある方は他の四感も使って情報を得るから、たとえば周囲の音に反応してカメラを向けたりする。
そうして切り取られた世界は、晴眼者の視点ではとらえられない世界になります。
そう考えると、晴眼者は「視覚障害者より見えている」とは限らないことに気が付きます。
「みる」ということは、単に目を使って視覚情報を得るというだけでなく、今の自分が持ち得る五感を使って感じ取ることだと、今、私は思います。

とはいえ、ものごとがよく見えている人が偉いとか、見えていない人はダメだとか、そういう話ではなくて、
人は意外とものごとが見えていないということ、同じものが見えているとは限らないということを前提とした方が、より幸せに生きられると思います。

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