【小説】ワンルーム野襖

 壁がある。ないはずのところに壁がある。
 仕事を終えて、疲れ切った身体を引きずるようにしながら帰路について、アパートの自室の前までたどり着き、背広のポケットから鍵を取り出し、ドアを手前に引く。すると、そこに壁が出来ていたのである。それも、ただの壁ではない。ただの壁が立っていたのであれば、私もテレビバラエティ的なドッキリを疑うことが出来るのだが、それは明らかに異様な姿かたちをしている。自室の玄関に立ち塞がっている壁には、一面に白い毛が生えている。これがもしもドッキリだとしたら、企画がブレてしまう。
 このまま呆然と立ち尽くしていても埒が明かないので、思い切って右手で壁に触ってみる。ふわっ。柔らかい毛と深い温もりの肉感。私は直感的に、それがネコであることに気が付いた。私の家の玄関を巨大なネコが塞いでいるのである。理由は分からない。意味も分からない。そもそもそんなに大きなネコを見たことがない。世界最大のネコをいわれているメインクーンでも、1メートルを超える程度だと聞いたことがある。だとすれば、この全長を確認することも出来ないネコは、果たしてなんなのか。
 しばらく、右手だけでネコの肉壁を触っていた私だったが、そのうち、たまらなくなってしまって、通勤カバンを廊下に落として左手でも触るようになり、気づけば上半身、遂には下半身まで身を預けるようになっていた。全身で感じるネコの質感は、子どものころに父の友人宅を訪れたとき、やわらかくて素敵な香りがした高級なソファの上で寝転んだ記憶を思い起こさせるものだった。
 あまりの心地良さに、このまま、ここで寝てしまっても良いのではないか、という気持ちにもなってきたが、流石に隣近所の目というものがある。なんとしてでも家の中に入らなくてはならない。そこで、なにか似たような事項がないものかと、胸ポケットに入れていたスマホを取り出して、「壁 入れない」などといったそれらしいワードで検索したところ、「塗壁」という妖怪の存在が浮上してきた。
「塗壁」はかつて福岡県に出没したという妖怪で、夜道を歩いていると、突如として見えない壁として立ち塞がり、前に進めなくしてしまうものらしい。どうしてそんなことをするのか。理由はあるのか。否、妖怪のすることなので、特に理由などないのだろう。ただ、今現在、私の家の玄関を塞いでいる何かは、はっきりとその存在を目視することが出来る。塗壁とは本来、見えないものらしいので、これはまた別の存在なのかもしれない。
 そう思いながら、更に検索をしていると、似たような妖怪に「野襖」というものがいるという記事を見つけた。塗壁と同様、夜道を歩いていると、こちらは襖のような壁が出来て、どこにも行けなくなってしまうのだそうだ。野襖の対処法は、しばらく休むことらしい。慌てることなく、タバコでもふかしていれば、自然に消えてしまうのだそうだ。
 なるほど、と思いながら、再びネコの肉壁の方に目をやると、そこにはいつも見ている玄関があった。一瞬、戸惑ったが、すぐさま理解した。さっきまでスマホをイジッていた私の状態こそ、当時の人でいうところのタバコをふかしている状態だったのだ。その結果、おそらくは野襖と思われるそれは、自然と私の目の前から消えてしまったのである。
 一人、なんとなく納得した私は、廊下に落とした通勤カバンを拾い上げ、玄関に入り、ドアを閉め、鍵とチェーンをかけた。靴を脱いで、廊下の電気をつけて、途中にある洗濯機の中に脱いだ靴下を投げ込んだ。ワンルームのリビングの電気をつけ、通勤カバンを床に置き、背広とズボンを脱いでハンガーにかけた。風呂場に向かいながらワイシャツを脱ぎ、それをまた洗濯機の中に投げ込んだ。風呂場の洗面台で手を洗い、うがいをして、ついでに顔を洗った。風呂場の取っ手にかけていたフェイスタオルで濡れた顔と手を拭いて、リビングに戻り、下着姿のままベッドの上に腰掛けた。そして、自然に両手を見つめた。
「どうせ消えるのなら、もうちょっと触っておけばよかったな」

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