ボリス・グロイス「The Museum as a Cradle of Revolution 革命の揺籃としてのミュージアム」について
今回は、e-flux 2020年2月号に掲載されたボリス・グロイスの論文「The Museum as a Cradle of Revolution 革命の揺籃としてのミュージアム」について書いてみたい。原文は以下で読むことが可能だ。https://www.e-flux.com/journal/106/314487/the-museum-as-a-cradle-of-revolution/ 芸術の有用性を否定するという点において、前回、前々回紹介したタニア・ブルゲラの「ポリティカル・タイミング・スペシフィシティ」の議論や「有用芸術(アルテ・ウティル)」の概念とは芸術に対して真逆の考え方であり、それでいて必ずしも政治的な反動ともなっていないところが興味深い。だからこそ紹介する意義もあるだろう。まず要約してみよう。
今日、芸術家、科学者、哲学者を含めて、公共圏において活動する人々はしばしば、世界を変革したいという意図について語る。だが、いかにしてそうした全面的変革は可能か? ある物を変えるためにはそれをその全体性において見て把握しなければならないが、世界はその全体性において知覚することはできないと我々は信じる傾向がある。だが、我々の現代世界に完全には属していない一つの制度institutionがある。それはミュージアムだ。
それは特定のミュージアムではなく、歴史的なオブジェクトの保存であり現代世界におけるその展示のことである。これらの過去から来たオブジェクトは現代世界に属してはいるものの、現在における有用性を持たない。いかなる実践的目的のためにも用いられることはなく、過去、つまり我々の世界にとって外部である時間の目撃者のままにとどまる。したがって、我々の世界の外部の場所を占める、メタ・オブジェクトなのである。芸術とは、それらを生産した文化が消え去ったあとにも残るオブジェクトたちから成り立っているのである。
しばしば芸術作品は商品であるとされるが、通常の商品ではない。通常の商品は消費され破壊されるが、芸術は保存状態に置かれ、時間と使用によって破壊されることから守られているのであり、反商品なのである。芸術の異邦人的性質は、過去の芸術がなぜ異質であるのか問うことを可能にし、そうした問いは、メタ・ポジションを取って現代世界をその全体性において批判することを可能にする。なぜ過去と同じやり方で芸術を創造する能力を失ってしまったのかという問いへの答えは、現代世界をその全体性において巻き込むのである。
過去の芸術に回帰することは常に反動的であると思うかもしれないが、それはもちろん間違っている。マルクスは『ブリュメール18日』で、フランス革命が古代ギリシャ・ローマの民主主義によって鼓舞されたことを強調している。革命revolutionとは実際、回帰returnを意味する。その後に物事が誤った方向に向かうことになった過去の時点へと回帰し、新たなる始まりを企てることなのである。近代における芸術革命の歴史全体はそうした回帰の歴史である。
社会をその全体性において変革したいという革命的欲望を発展させるためには、すでに死んでミュージアム化されたものとして我々の現代文化を理解しなければならない。他の様々な社会形態の中の一つの特定の社会形態でしかない。歴史が我々に教えるように、我々がその中で生きる文化は死を免れない。過去と現在から未来を見るのではなく、その代わりに未来から過去と現在を見る必要がある。ヴァルター・ベンヤミンの語った「新しい天使」はそうしたものであり、後ろ向きに歴史を見たのである。予期された未来から歴史的過去を振り返り見ることで自身の文化的アイデンティティを失い、過去の諸文化は、そこから主体が選ぶことのできる選択肢のパノラマとして自らを提示する。
このパノラマの内にある全ての文化的形成物は、技術的進歩を通じて捨て去られ交換されたため道具として機能するのをやめている限りにおいて脱機能化されている。歴史のいかなる概観も、異なる物事を想像することを異なる文化が可能にすることを示している。したがって、マルクスが行ったように、古代ギリシャの文化的想像力は決して反復することはできないが、革命的回帰の行為を通して引用したり再行為化reenactすることはできる。過去の文化の希望と切望を振り返り見て、自身の文化の現実とこれらの過去の切望に忠実である能力をそれと突き合わせるのである。そして、再三、この能力の喪失と向き合うこととなる。こうした比較の作業が、革命的衝動を生み出す。
今日支配的な言説である国民アイデンティティは文化的過去に反動的なやり方でアプローチし、批判的・革命的なやり方で過去と現代社会とを突き合わせることをしない。現代の言説領域において、アイデンティティ政治からの出口を約束する唯一の知的動向は、ポストヒューマンとサイボーグの言説である。人間はサイボーグによって取って代わられ、サイボーグにとって、技術的に生産されたアイデンティティは受け継いだアイデンティティよりも重要なのである。この言説を歴史的アヴァンギャルドに比較してみる価値がある。
ポストヒューマニズムの言説は明らかに新ニーチェ主義である。ヘーゲルは、有用性の勝利をブルジョワ社会の主要な特徴だと考えた。我々の社会的価値は我々の有用性によって測られ、我々はみな進歩の奴隷となった。社会の全ての人は自由であるように見える一方、全面的な奴隷状態であった。今日においても、有用性という基準はかつて以上に支配的であり続け、有用な個人、社会的に有意義な仕事をする人のみが、社会によって認められる。それは芸術もそうだ。全面的奴隷状態への反逆が最もラディカルな表現を得たのはニーチェの言説においてであった。ニーチェの「超人」は生と死、勝利と敗北とを区別しない。自らの究極的な主人としての死を拒絶する。超人は自由なだけではなく、「奴隷根性」を表明するものとして有用性が君臨することを拒絶する主権者である。ニーチェ的な超人になることは、自らを脱機能化することを意味する。
古典的アヴァンギャルドのアーティストたちがまさに、自己脱機能化というこうしたニーチェ的戦略を採用していたことを見るのは今や容易い。伝統的に、芸術の有用性は、ある情報とあるメッセージを伝達することにあると見られていたが、アヴァンギャルドのアーティストたちはこの伝統的役割を拒絶した。ロマン・ヤコブソンが明確に述べたように、テクストやイメージの詩的機能は実際には、その情報機能のスイッチを切ることである。このようにして、アーティストは情報機械の奴隷であることをやめ、自らの芸術的決断において主権者となった。脱機能化された道具は道具のままにとどまるが、ゼロ道具、メタ道具となる。それが示すのは、このメタ道具を望みどおりに用いることができるアーティストの主権的な主体性である。だが、アヴァンギャルドの切望は今や完全に忘れられているように見え、全面的奴隷状態が受け入れられ賛美されている。今日、情報とコミュニケーションの時代に生きており、アヴァンギャルドの時代への回帰は不可能のように見える。情報機能のスイッチを切ると、何も残らない。我々は世界規模の情報伝達装置の奴隷であり、この装置における我々の役割はコンテンツ・プロバイダーである。我々は主権者となる能力を失い、参加し有用であることができるのみだ。
コンピュータの前にひとり座る人間にとって、情報の流れは外部にあり、スペクタクルとして提示される。それは偽情報と誤情報のスペクタクルである。インタネット上に載せたあらゆるコンテンツに対する反応は大部分、完全に馬鹿げたものに見える。我々は問いに対する奇妙な答えを得るとき、何が起こったのか? この人は狂っているのか? もしくは、答えには解読しなければならない何か深い意味があるのか?と考える。すなわち、我々の注意は、明示的な情報からその背後に隠された思考へと転じるのである。コミュニケーションと情報の流れが円滑に進むときには、他の人が実際には何を考えているのか興味を持つことはない。他の人が会話と情報を脱機能化するときのみ、その人を主権者として、思考しているものとして受け入れ始めるのである。
現代において、計算する機械、つまり人工知能にかなりの注意が向けられている。だが、計算は思考ではない。思考は、嘘をつき、戦略を立て、計画をする可能性を前提としている。嘘をついていると疑う場合のみ、その人が話すだけでなく考えていると我々は推測する。だが、計算のプロセスは、何も隠されていない透明なプロセスである。真に興味深いコンピュータは、あらゆる計算に対して常に同じ答えを出すか、同じ計算プロセスに対して常に異なる答えを出すかするコンピュータである。そうしたコンピュータは、進歩によって捨てられることに抵抗しうるメタ道具である。だが、現代の文化は脱機能化と主権を受け入れず、いつも同じことを行う際にスピードと効率が増加することを望む。したがって、個人コンピュータ、携帯電話などは永続的に捨て去られ、同じことをより速く、より効率的に行うデバイスへと自らの場所を譲る。破壊は、脱機能化そして芸術の可能性を排除するように見える。同じ論理は人間に適用可能である。ポスト・ヒューマンの言説がそうである。
人間と機械との共生を達成しようとすることは、人間の身体を進歩の運動へと従属させる。この共生の目標は明らかに、人間の能力とスキルの改良である。人種理論の時代には、人類の改良の可能性は淘汰にあるとされたが、今日では、技術的手段によってそれを達成しようと望んでいる。ここには、現代の技術的手段を用いて封建秩序へ回帰しようとする試みがある。それは実際には進歩を逃れることはないだろう。同じことはいわゆる人工知能についても言うことができる。機械は、我々が有用だと信じるものを計算する。全面的な奴隷状態は残ったままだ。
ここでの目標は、全面的変革が可能であるような条件を描き出すことである。そうした変革は、そこから現代社会をその全体性において見ることができるメタ・ポジションを前提とする。哲学と芸術の伝統はまさにメタ・ポジションの伝統である。過去の芸術は、それが歴史の動きによって脱機能化されているのでメタ・ポジションを提供する。アーティストは創造者ではなく、芸術の伝統と現代世界との媒介者である。つまり、二重スパイなのである。現在の条件下で芸術の伝統を継続する方法を発見することによって自身の時代に仕え、しかし、現在の文化を超えそしてその文化が消え去ったときに残る芸術作品をそこに加えることによってこの伝統にも仕える。二重の裏切りの戦略なのである。
明確になったことは、一方で近現代の技術的・政治的プロジェクトと、他方で芸術的・哲学的プロジェクトとのある種のギャップである。アーティストは改良と治療ではなく、病気と機能障害に興味を持つ。社会工学と異なる目標を持つのである。病気も故障も、全面的奴隷状態の観点からは失敗であるが、芸術の観点からは両者ともこの奴隷状態の主権的拒絶を示している。
ここまでがグロイス論文の要約である。それなりに複雑な議論なので結構長くなってしまった。脱機能化された物として芸術という考え方は、本論に限らずグロイスがいろいろな論文で展開している彼の持論である。例えば、本論とも多少関連した議論を行っている「アート・アクティヴィズムについて On Art Activism」でも、有用性を持ったデザインと、脱機能的なものとしての芸術との対立が論じられている。そもそも、グロイスにとって芸術とは、装飾などとしてかつて有用であった物がフランス革命後に(キュレーターによって)脱機能化されることによって誕生したものであった。冒頭で述べたように、こうしたグロイスの芸術概念は、「ポリティカル・タイミング・スペシフィシティ」や「アルテ・ウティル(有用芸術)」を標榜するタニア・ブルゲラのそれとは正反対である。グロイスにとっては脱有用化したものこそが芸術なのであり、他方ブルゲラにとって芸術は具体的な社会的結果を出すものとして有用でなければならないのである。このことは、芸術がもたらす社会的変革に対する両者の考え方におけるもう一つの違いにも関わる。ブルゲラは、芸術がある特定のコンテクストにおいて具体的な変化をもたらすべきであると考えるのに対して、グロイスが求めるのはそうした細かい変化ではなく全面的な変革であり、彼によればそれは脱機能化した芸術によって可能になるのである。ブルゲラは、世界の中で有用な芸術でもって変化を起こそうとするのだが、グロイスは脱機能化された芸術を通して世界の外部からメタ・ポジションに立って全面的に変革しようとする。具体個別な変容と全面的・普遍的な変革とのそうした対立が彼らの考えの差異の根底にあると言えよう。グロイスもブルゲラも、芸術を通して社会的変革を求めている点において共通しているが、芸術の概念、その社会的変革のあり方に関しては大きな違いがある。