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『万引き家族』映画評(1)(評者:佐野竜一)

 先週の3回生ゼミでは映画『万引き家族』について語り合いました。映画評は2人の方に書いてもらいました。まずは佐野竜一さんです。

『万引き家族』(是枝裕和監督、2018年)

評者:佐野竜一

 「家族とは?」と聞いてだいたい思い浮かぶイメージは、同じ家で暮らしてきた血の繋がっている人間ではあるだろうが、実際家族というものは様々な形がある。養子縁組であっても家族だろうし、犬や猫などのペットも家族の一員であると言える。では何を以って家族と見なすのだろう、という問いをこの『万引き家族』から受け取った。
 物語は治と祥太の万引きから始まる。この二人と信代・亜紀・初枝をあわせた柴田家はともに暮らしているのだが、治の現場仕事と信代のパートの給料では収入として乏しく、初枝の年金も加えて足りない分は万引きで賄うといった非常に貧しい生活を送っている。苦しい生活を送りながらも団欒していたある日、治は近所の団地の廊下で少女ゆりを見つけ家に連れ帰る。夕飯を食べさせたあと治と信代は少女を家に帰しにいったのだが、その家の者が激しく言い争っているのを外から聞き、ゆりを再び柴田家に連れ帰るのだった。ゆりの体には虐待の跡が残っており、信代は保護としてゆりと同居することを決める。こうしてゆりは柴田家の一員になり、のちに名前を「りん」とした。
 そこから柴田家はゆり改めりんを交えて万引きをしながら生活していくのだが、初枝の死をきっかけに柴田家が皆血縁関係にないことが明らかになっていく。ただの同居人・共犯者・誘拐した子供と、血の繋がりもないのにずっと一緒に暮らしていたのだ。そしてそのことは万引きをしようとしたりんを庇う形で祥太が捕まることで白日の下に晒されることとなり、柴田家は引き裂かれそれぞれの生活に戻るのだった。
 血縁関係がまったくない柴田家ではあったが、その生活の様子は紛れもなく家族として鑑賞者の目に映っていた。では何が柴田家を家族たらしめていたのだろうか。そこにはまず最初に利害関係というものが存在する。お互いが生活しやすいようにお互いを利用しあいながら身を寄せあっていたのはたしかだ。しかし柴田家はただそれだけの冷めきった関係には見えない。柴田家には愛情のようなものがたしかに存在していた。初枝は治を、治と信代は亜紀・祥太・りんを子供のように感じていたし、亜紀・祥太・りんも親のように慕っていた。りんを毛嫌いしていた祥太も徐々に妹として受け入れていったように思える。この想いあう関係が家族の根底にある要素ではないだろうか。お互いを想いあい一緒にいたいと思える対象こそが家族と呼べるものであると考える。裏を返せばお互いを想いあえない関係はたとえ血縁関係があったとしても家族ではないとも言え、それはまさしくりんが元いた北条家のことを指す。寒い夜の外での締め出し、体に残る虐待の跡、柴田家にいる間も出されることのない捜索願。「産みたくて産んだわけじゃない」とまで言ってしまえるほど北条家の親は子供への愛情がなく、家族とは到底言えない関係だろう。
 作中、信代が言っていた「選ばれたのかな?」という言葉が深く印象に残っている。近頃「親ガチャ」という単語がささやかれるように、子供は親を選べないという認識が根強く存在している。たしかに生まれてくる親元を選ぶことはできないが、親だと認める対象を選ぶことはできるということを忘れないでほしい。子供は自身に危害を加えるような人間を親だと思う必要はなく、その場合は自身が一緒にいたいと思える保護者を親に選んでいいのだ。社会もそれが当たり前とされるようになってきている。
 家族の本質・家族のあり方を再確認することが、現代社会の課題の一つである児童虐待問題を改善することに繋がるだろうという期待を込めて、『万引き家族』はその一端を担う作品として後世まで語り継がれてほしい。

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