ペンネーム:社会の蟹
『変心』
ある朝、私が気がかりな夢に目覚めたとき、自分が壁に張り付く一匹の蛾に変わってしまっていることに気づいた。
もつれそうな六本の足、無数の複眼による万華鏡めいた視界、口や鼻孔ではなくからだの側面から空気が出入りする奇妙な感覚、昨日の夜から様変わりした他でもない自らの感覚器官が今や私が人ではなくなったことを残酷なほど如実に示していた。湧き上がった混乱と絶望のあまり叫び声をあげたかったが情動に任せた発狂寸前の絶叫は渦巻いたストロー状の口がせわしなく伸縮するだけの行為に変換され、わずかな空気のゆらぎにすらならなかった。
だがすでに自分が小さな虫けらに成り下がったこと以上の事件が部屋の中では起こっていた。眼下では他でもない人間の私が目覚ましのアラームに飛び起きていたのだ。それはいつも通りの人間の私だった。ろくに時間の余裕も無いのにコーヒーをいれるのんきさも、身支度で髪型はやけに丁寧に整えるくせに靴下は左右で違うものをはいていることに気がつかない詰めの甘さも、星座占いに一喜一憂してみたりするくせにその下の午後から雨のテロップをみのがして傘を用意しない間抜けさも、全てが紛れもなくいつもの情けない私だった。だが人間の私がああして存在しているのならば、この私はいったい何なのだ。蛾に成り果てた私は。自分が何者か保証できない私は。
ぐるぐると巡りつづける思考を突き放すかのように人間の私が玄関の扉を閉める音が無人の部屋にむなしく響いた。すると万華鏡めいた視界が揺らぎ、六本の脚から力が失われた。落ちる。落ちる。どこか柔らかな感触を背に受けながら私の意識は暗くなっていった。
ある夜、私がバイトを終えて家に帰ったとき、ベッドの上に一匹の蛾の死骸が転がっているのに気がついた。
今日は最悪だ。大学のテストは散々だった、友人とは些細なことで喧嘩別れした、傘を忘れて雨にさらされたし、バイトでも皿を割って店長にどやされた。その挙げ句にこれだ。星座占いはこれだから当てにならない。そうだ、これを片付けたら今日はもう寝てしまおう。明日になれば心機一転、何事もやっていけるだろう。その日あったどんないやなことも一晩ぐっすり寝たら忘れてしまえる能天気さだけが私の取り柄なのだから。
ベランダの窓をあけ、くるんでつまみ上げたティッシュペーパーごと蛾の亡骸を雨の降りしきる夜の闇へと投げ入れた。白く安っぽい紙片の船は風に吹かれ、雨にうがたれ、不規則に揺らめいてやがて見えなくなった。部屋に目を向けると、わずかにベッドへと残された虹めく鱗粉の反射がいやに目についた。なんだか無性に心がざわついてどうしようもなかった。もう寝てしまおう。疲れているのだ。明日はきっとうまくいく。そう信じてベッドに身を横たえて目を閉じれば、柔らかな感触を背に受けながら私の意識は暗くなっていった。
もう私はずっと気がかりな夢を見ている。自分が一人の人間になる夢だ。