『ゼイリブ』映画評(2)(評者:北川結衣)
『ゼイリブ』映画評(ジョン・カーペンター監督、1988年)
評者:北川結衣
知らない間に何かに洗脳されているとしたら。この世界ごと支配されているとしたら。この作品は、そんな漠然とした不安を煽るSFコメディーホラー作品である。
貧富の差が激しい世の中で失業者の一人として仕事を探していたネイダは、とある建設現場にたどり着く。寝る場所もなかったネイダは、そこで知り合ったフランクという男に誘われて、教会が所有する空き地に建てられた彼の住む貧民キャンプへと向かった。そこででは最近頻繁に、「何かに支配されていること」を主張する謎の電波ジャックが起きており、ネイダはそれが教会で行われていることを知ってしまう。数日後に教会とキャンプは、何かを隠すかのように警察が破壊、そこに住む人々も追放されてしまった。翌日、滅茶苦茶になった教会を訪れたネイダは、人に扮したエイリアンが見えるサングラスを見つけ、そこから彼は追われる身となってしまう。彼は咄嗟に近くにいたホリーに匿うように頼むが家についてすぐに殴られ、通報されてしまう。逃げ惑う中で彼はエイリアンに抵抗している人々の集まりに参加し、エイリアンたちは電波によって人々を支配していることを知る。そこでホリーと再会し、彼女はネイダに対して何も知らなかったと詫びた。そうしているうちに警察に襲撃されてしまうのだが、集まりで渡されたエイリアンから奪ったとされるワープ装置を使ってネイダとフランクは逃げることに成功する。しかし逃げた先は、エイリアンによって作られた地下都市であった。都市内をさまよっているとまたホリーと再会し、電波の発信源が最上階にあると教えられ、彼らは最上階へと向かったが、そこで待っていたのは大量の警察と銃口を向けたホリーだった。ネイダは襲撃されながらもホリーを撃ち、発信源の破壊にも成功し、人々に扮していたエイリアンたちの素顔がばらされることとなったのだった。
この作品は、制作された年である80年代社会の政治的支配やメディアの洗脳的な思想放送の比喩ともとれる。しかし、今回その時代に生きていない私も現代の資本主義社会を重ねて見ることができた。社会の洗脳的事案は40年経った今でも存在しているのだ。作中ではエイリアンであったが、この世の中で他人の声によって無意識的に洗脳されていることは少なくない。特にメディアの報道の虚偽は近年大きく問題化されている。しかしメディアに限らず、政治家や教師、友人や家族、どんな人でも自分の信頼できる者すべてが真実であるとは限らない。人を疑うことも生きていく中では重要な行動なのである。
「彼らは生き、我々は眠る」
(作中引用)
自分が心地良いと思う夢からはだれしも覚めたくない。しかしそれはもしかしたら生きているものに眠らされているのかもしれない。