【新卒一年目】商社営業マンの試練
こんにちは。菅原です。
今回は私の新入社員時代の経験について書いていきます。
当時、ポンコツ営業マンだった私は顧客や先輩社員に怒られながら仕事をしていました。
正直、辞めたいと思ったことは何度もありますが、結果として今も同じ会社で働いています。
「商社の営業」というと華々しい印象を持たれている方も多いかもしれませんが、実際は泥臭く仕事をしています。
私自身、新入社員時代に経験した内容がかなり泥臭く、10年近く経った今でも強烈に覚えているので、今回はその当時の経験談を書いていきます。
前段として、まずは簡単に私自身の自己紹介をさせていただきます。
基本情報
• 名前:菅原
• 年齢:30代前半
• 居住地:関西
• 職業:半導体商社 営業職
新卒で半導体商社に入社し、現在10年目の営業職として働いています。この10年間で、半導体業界のダイナミックな変化を間近で感じながら、多くの顧客とともにさまざまなプロジェクトに携わってきました。
入社してから営業一筋で、一担当からチームリーダーまで経験してきました。
早速、新入社員時代の経験談を書いていきます。
酒のツマミくらいの感覚で読んでいただけたら嬉しいです。
半導体商社に入社、そして営業配属へ
私は大学卒業後、半導体商社に新入社員として入社した。新人研修を終え、営業部門への配属が決まった。営業配属が決まった時点では、大きな期待とやる気に満ちていたが、現実は決して甘いものではなかった。
チューターは40代のおじさん
新入社員には1人ずつ先輩社員がチューターとしてつく仕組みになっていた。
私のチューターになったのは40代手前の中年男性だった。今後このチューターを「おっさん社員」と呼ぶ。
他の同期のチューターは20代後半から30代前半と若い先輩たちが多く、自分だけおっさん社員が担当になったことに違和感を覚えた。
しかし、当時は深く気にせず、目の前の仕事に集中することにした。
ただし先に述べておくと、このおっさん社員はとんでもないパワハラ上司であった。
この事実が明らかになるのは後の話だが、結果的に自分は配属から1年で部署異動を余儀なくされ、このおっさん社員とは別の道を歩むことになる。
担当顧客は“厳しい家電メーカー”
配属後、私はおっさん社員と一緒に大手家電メーカーを担当することになった。このメーカーは、商社に対して厳しい要求を突きつけることで有名であった。後になって聞いた話だが、自分が配属される前にもこのメーカーを担当していた営業が、心を病んで退職していたという。
新入社員の中で体育会系出身だった自分が選ばれたのは、おそらく「プレッシャーに耐えられるだろう」と期待されたためである。しかし、そのプレッシャーは想像以上だった。
逼迫するデリバリと膨大な業務
担当商材は国内メーカーの部品だった。
しかしこの部品は常に供給不足に陥っており、デリバリは非常に逼迫していた。顧客からの厳しい要求に応えるべく、納期調整や交渉に追われる日々が続いた。
当時の主な業務内容は次の通りである
•デリバリ調整:
不足する部品をいかに確保するか、仕入先や物流と交渉を繰り返す。
•不具合対応:
顧客からのクレームに対し、原因を調査し迅速に解決策を提示する。
•ペーパーワーク:
製造現場での変更に伴う4M書類作成や承認手続き。部品の環境資料の入手など。
クリエイティブな新規提案や企画といった仕事は一切なく、目の前のトラブル対応と事務処理がほとんどだった。それでも、自分とおっさん社員の二人で売上は100億円くらいあった。
これは商社営業としてはかなり大きな規模であるが、その分プレッシャーも大きかった。
試される精神力
この1年間は精神的に非常にタフな時間であった。
顧客からの厳しい要求、常に不足する部品、そして上司のパワハラ。
これらが重なり、何度も心が折れそうになった。しかし、この経験が後の自分を大きく成長させるきっかけとなったことは間違いない。
初めての会食:屈辱の瞬間
配属されて間もない頃、おっさん社員と担当顧客である家電メーカーの調達課長との会食があった。
新入社員として初めての会食であり、顧客との関係構築を学べる場だと意気込んでいたが、この経験は営業としてのスタートに暗い影を落とすものとなった。
会食の席で、顧客である調達課長からいきなり嫌味を浴びせられる。
「いいよなお前は。先輩の鞄持ちで給料もらえるんだからな。」
新入社員としてまだ何も仕事ができないのは当たり前のことだが、その言葉は新社会人としての自分の自尊心を大きく傷つけた。
さらに辛かったのは、それを受けたおっさん社員の対応だった。
ヘラヘラと笑いながら「こいつ何もできないんですよ〜」と、顧客の言葉に同調したのだ。
その場で反論することもできず、ただ黙って座っているしかなかった自分に、どうしようもない無力感が押し寄せた。
その顧客は完全に商社を下に見ており、
「自分たちは発注者、商社は従属者」という考えが当然のように態度に表れていた。
このような顧客に対して、どのように対応していけばいいのか、配属からわずか2週間の自分には全くわからなかった。
この会食を通じて、営業としての自分の未来に大きな不安を感じた。「自分は本当にこの仕事をやっていけるのだろうか」という疑問が頭をよぎる。
まだ始まったばかりのキャリアだが、すでにその道の厳しさを垣間見た瞬間だった。
顧客からの嫌味、先輩社員の軽視、そして自分の未熟さ。この会食で味わった屈辱は、今後の営業人生で決して忘れることのない原体験となった。
顧客「お前バカなの?」初めての単独訪問の洗礼
夏頃になると、私は一人で顧客を訪問するようになった。周りの同期は先輩社員と一緒に行動することが多く、サポートを受けながら営業の基礎を学んでいた。
しかし、なぜか私は早々に一人で顧客に送り出された。おっさん社員からの「経験は現場で積むものだ」という方針だったのかもしれない。
その日、私はいつもおっさん社員と一緒に訪問していた顧客の担当者に初めて単独で会うことになった。緊張していたが少しでも打ち解けようと、おっさん社員と同行したときに見たアイスブレイクを真似してみることにした。
打ち合わせが始まり、私は当たり障りのない一言を放った。
「今日は暑いですね。」
しかし、返ってきた言葉は想像をはるかに超えるものだった。
「当たり前じゃん。夏なんだから。お前バカなの?」
一瞬、頭が真っ白になった。想定していた「そうだね、暑いね」といった普通の返しとはまるで違い、3秒ほど固まった自分を、相手の冷たい視線が突き刺した。
そこからどうやって話を切り替えたのか、何を話したのかは一切覚えていない。ただ、会話が全て空回りしていたことだけは確かだ。
初めての単独訪問は、私にとって営業の厳しさと顧客対応の難しさを突きつける洗礼の場となった。
おっさん社員「お前やる気がないなら帰っていいよ」
秋になり配属から数か月が経過する頃には、仕事の流れをある程度理解し、デリバリ業務も一人で回せるようになっていた。
ただ、この時期は半導体不足が深刻化しており、納期調整は熾烈を極めていた。
顧客の要望に応えるために、日々の業務は残業が当たり前で、夕方の打ち合わせが終わると、その後はおっさん社員とカフェに籠り、終電近くまで仕事をするのが日常だった。
そんな過酷なスケジュールの中、来期の予算を作る時期がやってきた。
通常業務に加え、予算作成という重要タスクが重なることで、さらに残業が増えるのは避けられなかった。
ある日、いつものようにカフェで仕事をしていると、時刻はすでに21時を回っていた。疲労で思考が鈍る中、おっさん社員が何気なく言った一言が引き金となった。
「今から予算作るかー」
その言葉を聞いた瞬間、心が拒絶反応を起こした。毎日続く長時間の残業で精神的にも疲弊していた私は、「流石に遅いので明日にしましょう」と言って、その場での予算作成を断った。
おっさんからの返答は冷たかった。
「お前やる気がないなら帰っていいよ」
その言葉で、これまでの疲労やストレスが一気に押し寄せ、私のやる気は完全に消え失せた。
そして私は本当にその場を立ち去り帰宅した。
振り返らず、後悔もなかった。
ただ、「これ以上この人と一緒にやっていけるのだろうか」という思いだけが胸に残った。
次の日、予算はすでに完成していた。
おっさんが終電まで作業していたのだろう。
だが、この一件を境に、おっさんとの間に大きな溝が生まれた。
会話は必要最低限になり、業務以外の接点を持つことはほとんどなくなった。
心療内科「この先2週間は予約が埋まってます。」
12月の頃。
残業続きの日々と、顧客やおっさん社員からのストレスで、私のメンタルは限界に近づいていた。仕事を終えても気持ちは全く休まらず、休みの日でさえ仕事のことが頭から離れない。常に気が重く、夜もほとんど眠れなかった。そのせいで目の下にはひどいクマができていた。
「これはさすがにまずい」と感じた私は、
生まれて初めて心療内科を受診しようと決意した。
電話で予約を取ろうとする。初めてのことだったので、少し緊張しながら病院に連絡した。
菅原:「すみません、予約を取りたいのですが。」
病院:「初診ですか?再診ですか?」
菅原:「初診です。」
病院:「初診は、この先2週間は予約が埋まってます。」
すぐに診てもらえない悔しさよりも、私は「世の中にはこんなに病んでいる人が多いのか」と妙に感心してしまった。自分の状況は特別ではなく、多くの人が同じようにストレスに苦しんでいるのだと思うと、逆に少し冷静になった。
結局、心療内科は受診しなかった。予約を取るためにさらに2週間待つ余裕も気力もなかったからだ。それからは睡眠時間を少しでも確保するために生活を見直し、何とか自力で乗り切ることにした。
ストレス社会の現実を目の当たりにしたこの経験は、メンタルケアの大切さを痛感させられるきっかけとなった。
顧客「じゃあお前が今から中国に持ってこいよ」
部品追加納入の緊急事態
年度末のある日、担当顧客の倉庫で事故が発生し、部品の追加納入が必要になった。
しかし部品は在庫がなく、メーカーからの新規調達にも時間がかかる状況だった。
顧客からは「とにかく早く届けてくれ」と要求され、私は輸送リードタイムを考慮して納期を回答したが、それでは遅いと納期短縮を強く求められた。
顧客にとってこの部品は生産ラインを止めかねない重要なものであり、交渉も激しいものとなった。
私は輸送リードタイム的に短縮が難しいことを何度も説明したが、相手の焦りと怒りは募るばかりだった。そして、とうとう電話越しにこう怒鳴られた。
「じゃあお前が中国に持ってこいよ!」
その言葉は私にとって決定打だった。これまでの残業続きや顧客の厳しい要求、おっさん社員からの圧力など、すべてのストレスが一気に押し寄せ、涙が止まらなくなった。
号泣する23歳と冷たい視線
電話を切った後も涙が止まらない。隣にいた先輩は冷たい視線を投げかけ、そんな私にさらに追い打ちをかけるような言葉を投げた。
「なんでお客さんが怒ってるか分かる?」
泣きながら顧客の背景を考え、何がいけなかったのかを説明したと思う。
柔軟に納期調整ができなかったこと。
顧客の状況を深く理解していなかったこと。
全体的に自分の対応が不十分だったこと。
すべてをえずきながら絞り出した。
先輩は容赦なくこう言い放った。
「営業としては失格だよね。」
その言葉がさらに追い討ちをかけ、私は泣き続けるしかなかった。
泣きながらの謝罪電話
おっさん社員からの指示。
「今からお客さんに電話して謝って。」
この状態で電話を掛けさせるのは正気ではないと思ったが、顧客に対する申し訳ない気持ちは本当にあったため、指示に従った。
震える声で電話をかけ、泣きながら謝罪を伝えた。
涙で言葉が詰まりながらも、精一杯謝罪した。
すると、予想外の言葉が返ってきた。
「もう分かったから。頑張って。」
呆れられたのか、こちらが泣いているのに引いたのか、あるいは怒鳴ったことへの罪悪感があったのかは分からない。しかし、予想外にも顧客から励まされ、その瞬間だけは救われた気持ちになった。
おっさん社員の真意
電話が終わった瞬間、先輩が携帯を奪い取った。そして顧客にこう話し始めた。
「あ、電話代わりました、〇〇です。今回は菅原がすいません〜。菅原もこう言ってるので許してやってください笑。後は私が調整しますね笑」
顧客と和やかな雰囲気で話を進める先輩を見て、ようやく理解した。この一連の流れは、先輩が顧客との関係を築くための演出だったのだと。
私の謝罪も含めて、顧客に「誠意」を見せる道具として使われていたのだろう。
結果として、顧客とのリレーションは良くなった。しかし、私の心に残ったのはその成果ではなく、自分が限界を超えて泣きながら謝罪し、それすら利用されたという事実だった。
入社一年目のまとめ
最後の一件をきっかけに、私は営業の仕事が本当に自分に向いているのかを疑い始めた。
どれだけ努力しても、精神的なプレッシャーを避けることはできない。
営業の現場では、顧客や上司との厳しいやり取りが発生する。
しかし、限界を超えて追い込まれる状況で本当にベストな対応ができるのか。
それに耐えられるメンタルや環境があるかどうかが、営業の成否を分けるのではないかと、この一年間の経験を通じて痛感した。
営業は自分が耐えられる仕事なのか。
一年目の終わりの時点で、私は転職を考え始めた。
反響が大きければ転職活動(結局転職していませんが)の話や、二年目の内容も書いていきたいと思います。
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