♯4 戊辰戦争での痛恨の落城・白河小峰城
奥羽の関門たる白河の地に築かれた総石垣づくりの名城。戊辰戦争による落城と焼失,そして時を隔て東日本大震災での大きな被害などがあったものの,かつての姿を取り戻すべく,修復や復元工事が進められている。
白河小峰城の始まり
「白河藩」だと思っていたし,戊辰戦争での白河口の戦いの印象が強いためか「白河城」と思っていたが,史跡としての名称は「小峰城」となっている。ここでは,「白河小峰城」と呼ぶことにしたい。白河市のホームページによれば,白河小峰城の築城は,南朝の忠臣として有名な結城宗広の嫡男・親朝によって行われたらしい。この時点で,やはり格別な城である。
混沌とした南北朝の動乱や一族の内紛の時期を経て白河結城氏の本城となり,やがて戦国時代を迎えたものと思われる。佐竹氏,蘆名氏,伊達氏など周囲の有力武将の狭間をなんとか生き延び,結城氏が最後に頼ったのが伊達政宗であった。しかし,豊臣秀吉への臣従を逡巡する伊達家の動きの煽りを食ったのか,小田原に参陣することなく滅亡の憂き目にあう。最後の当主,義親は,政宗によって伊達家の客分として迎えられ,その子孫は伊達家の家臣となって存続していくことになる。
築城名人・丹羽長重による大改修
南奥羽の諸城が皆そうであるように,白河小峰城が近世城郭としての形を整え始めるのは,蒲生氏郷の会津入り以降のことだろう。白河小峰城の場合には,さらに,江戸初期に初代白河藩主となった丹羽長重による大改修があり,現在のような主郭部分を総石垣づくりとした見事な城郭となったようだ。
丹羽長重といえば,織田信長の重臣であり,安土城普請の総奉行を務めた丹羽長秀の長男である。長重も父譲りのハイレベルな築城技術を持ち,高く評価されていたらしい。関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されながらも大名として復活できたのは,その築城技術の高さゆえとも言われているようだ。
正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた正保城絵図「奥州白河城絵図」が国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている。城郭内の建造物なども含めて描かれており,その縄張りの見事さを堪能できる。
主要な曲輪は,水濠で隔てられていたようであるが,現在では,本丸の西北方に巡らされた帯曲輪下に残る濠のみとなっている。
白河城の建築
白河小峰城のシンボルとも言える櫓が,本丸北東隅に建つ三重櫓である。黒塗りの下見板張りによって,小ぶりながらも引き締まった精悍な表情を見せている。この三重櫓は,平成3 年に木造で復元され,続いて平成6 年には前御門も復元された。日本の木造復元城郭の先駆けとなったと言われている。
白河小峰城の建造物については,文化5年(1808)に成立したと考えられる「白河城御櫓絵図」が残っていて,多数の櫓や門がどのような姿で存在していたのかを確認することができる。
本丸西方には,富士見櫓,雪見櫓と名付けられた二重の櫓があったようだ。戦闘のための建造物とは思えない風雅な響きがある。城門も櫓門の形式を取るものが多く,石垣の巧みな配置と併せて固い守りを感じさせる。
白河といえば松平定信
個人的に関心が高いのは,松平定信よりも田沼意次なのだが,白河といえば松平定信である。贅沢を禁じた寛政の改革が江戸っ子には不評でも,白河の民は,名君として崇めている。
定信が御三卿の田安家を出て白河藩主となったのが天明3年。冷害による凶作に加え浅間山の噴火が重なって被害が拡大していく天明の大飢饉の年である。この時,定信は食糧の確保に努め,領民に配るなどして領内に一人の餓死者も出さなかったという。そのような定信が「士民共楽」という理念のもとに造営した南湖公園は,領民を深く思いやる気持ちの象徴なのだろう。
南湖を望む南湖神社に,定信は祭神として祀られている。参道の入り口には,「楽翁」と称した定信の石像が建立されている。
松平定信の事績を振り返りながら,彼が政務を執ったであろう本丸御殿の跡を眺めれば,その景色も格別のものとなる。本丸御殿は,藩主の居所と政庁を兼ねていて,畳数は770畳もあったとの記録が残っているらしい。
最後の白河小峰城主・阿部氏と戊辰戦争
白河藩主は,丹羽家以降,榊原,本多,松平(奥平),松平(結城),松平(久松),阿部家など徳川親藩・譜代大名が務めた。最後の白河小峰城主・阿部正静(まさきよ)は,幕末の混迷する政局の中で外国奉行や老中を務めていた阿部正外(まさとう)の長男である。正外は,イギリスなどによる兵庫開港要求に対処する過程で,朝廷から違勅を咎められて官位剥奪と謹慎を命じられた。そのため,正静が後を継ぐこととなった。この問題は,当主の交代だけでは済まず,阿部家は棚倉への移封となった。空いた白河小峰城が幕領となってしまい城主不在だったことが,戊辰戦争白河口の戦況に大きく影響したのではないかと思っている。
当初,白河小峰城は新政府軍の命に応じて二本松藩が管理していたが,会津藩が奪取。奥羽越列藩同盟の結成により,仙台藩ほか棚倉藩なども参集して新政府軍を迎え撃つことになる。兵数では奥羽越列藩同盟軍が新政府軍に圧倒的に優っていたものの,統制がとれていなかったのか。結果は,新政府軍の巧みな戦術と火器の前に,実戦経験が乏しく戦い慣れしていない同盟軍の惨敗で終わった。ここが要の白河だったのに激戦地・稲荷山の攻防だけで700名以上の戦死者を出し,あっけなく落城したことで奥羽における戊辰の戦の大勢は決してしまったと言える。まさに,痛恨の落城というしかない。白河小峰城と棚倉城の2城を守備することを余儀なくされ,結果2城とも落城して逃走せざるをえなかった阿部家中の心中も察して余りあるものがある。
復元された三重櫓の床板には,城下南西にあって激戦地となった稲荷山の杉材が使われており,戊辰戦争当時の弾痕が残っている。稲荷山は,奥州街道が白河城下に入るところに位置しており,その攻防の激しさを現地の説明板が以下のように伝えている。それにしても,弾痕を見れば,そんな大きさの鉄砲玉が体を貫通したら,そりゃ,生きていられないだろうなと,ゾッとする。
この戦いの様子は,戊辰戦争150年にあたる平成30年(2018)に白河市が制作したビデオ『戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー』に分かりやすくとまとめられている。
清水門を復元
明治維新後,旧城地に鉄道を通した例がいくつもある。仙台藩内の岩沼要害(城)なども,城跡に駅がつくられて線路が貫通し,城の痕跡をたどることが難しくなっている。白河小峰城もまた,三の丸跡に駅が造られ,線路によって旧城地は分断されてしまっている。用地が確保しやすかったということもあるだろうが,旧権威の象徴であった城を新時代の象徴とも言える鉄道で破壊することにも意味があったのではないだろうか。
そして,自然災害もまた,城郭を破壊する。平成23年3月11日に発生した東日本大震災とその後の余震の影響で,白河小峰城の石垣は合計10箇所に及び崩落した。石垣の崩落については,もちろん放置していれば危険を伴うので,すぐさま復旧へと向かうわけだ。ただ,そういうこととは別に,時間や多額のお金を費やしてまで城の姿を復元したいと願うのは,どうしてなのだろう。白河小峰城では,三重櫓,前御門に続き,清水門も復元へと向かっている。もちろん観光資源として有用とか,そういうこともあるのだろう。それにしてもだ,支配される側であった我々庶民であっても,支配権力の象徴とも言えるお城の姿を元に戻したいと願うところが面白いと思う。武家の血脈をつないでいる訳でもない人々の心の中にも,支配=抑圧という風に単純には語れない何かが,お城に対してあるのだろうか。
城下町の蕎麦で一杯
白河の麺といえば,白河ラーメンなんだろうけど,なんとなく城下町らしく天ぷらと蕎麦で一杯。おそらく再開発中なのか,駐車場や空き地が目立つ白河駅前の一角に構えの良い蕎麦屋・大福家があり,自然とそこに吸い込まれた。創業は明治の頃らしく,お酒を呑むための蕎麦ちょこは,創業当時から使っているものだと言う。とても,味わい深い。もちろん,お蕎麦も手打ちで美味しい訳だが,そのおいしさに,うっかりして写真を撮っていない。。。
写真は,越後高田藩の飛び地3万3千石の陣屋があった釜子(かまのこ)村の有賀醸造が醸す,その名も「陣屋」。殿様から命じられて酒造りを始め,以来伝統の技を受け継いでいるという味わい深い一杯。そして,白河の東,棚倉の北にあった釜子陣屋も戊辰戦争に巻き込まれた。棚倉城落城の翌日に板垣退助によって占領されたのだという。
本藩高田藩は新政府軍側にあったのに,連絡がつかなかったために奥羽越列藩同盟軍と行動を共にせざるを得なかったのだとか。最後は会津若松城に籠城までして敗戦を迎えたということらしい。その後の悲劇の連鎖を生むという意味でも,痛恨の白河落城であったなと思いながら蕎麦湯で締めた。