SELECTION 1973-78/オフコース~大好きなベスト・アルバム・コレクション。
実は最初に買ったベスト・アルバムがこれなんですねー。
なぜ買ったかとか色々と思い出していたら、結構面白いというか、興味深いので、だらだらと書いていきます。またまたまた長くなりそうです。
オフコースの名前を知ったのは多分みのもんたさんがパーソナリティーだった「ニューミュージックベストテン」(文化放送なんでしょうね、放送していたのは)でした。
かまやつひろしさんの「ライオンフォークビレッジ」(これは間違いなくニッポン放送)かもしれませんが、どちらにしても1978年ですね。
当時の最新シングル「あなたのすべて」がベストテンの下の方、8位か9位に入っていた頃、聴いたのです。
それまで歌謡曲かアリスにかぐや姫、吉田拓郎さんを夢中になって聴いていたわけですから、「あなたのすべて」はあまりにショックだったんですねー。
まず声が違ったし、曲は変に盛り上げようとしていないわけですから、何か新しいものに触れたということでテンション上がりまくりでした。
で、「あなたのすべて」のシングル盤とベスト盤が出ていると、レコード屋さんに薦められて買って帰ったわけですよ。
帰って聴いたら、シングルとアルバム全部の曲がカッコいいわけで、頭の中がオフコースでいっぱいになってしまいました。
・オフコース『SELECTION 1973-78』(TOCT-95037/EMIミュージック・ジャパン)
次のシングルが「愛を止めないで」だったんで、ラジオでオフコースの名前を聴くことが増えたんですね。この頃はまだ小学生でした。
中学に入るとシングル「愛を止めないで」やアルバム『Three and Two』に単行本「Three and Two」(八曜社)で、オフコースはそこそこ有名になって、冬には「さよなら」が大ヒットしたわけですね。
特に単行本の「Three and Two」は夢中になりましたよ。毎日、学校に持っていってましたから。
・オフコース「Three and Two」(八曜社)
その頃、我が家は単品でコンポを組んだこともありまして、カセットにダビングをやたらと頼まれた記憶があります。
一応、針飛びがしないように確認しながらダビングするわけですから、ダビングする度に毎回毎回聴いていたのでした。
繰り返して聴くと、『Three and Two』よりも『SELECTION 1973-78』の方が好みだとかわかってくるわけです。
収録曲でいうと「のがすなチャンスを」が大好きになってしまいました。ライヴ録音の迫力がよかったのでしょうね。
ま、その後すぐYMOやムーンライダーズに興味の対象が移ってしまうわけですが。ダビング頼まれるともうオフコースは古い!とか勘違い発言野郎になってしまったわけです。
大学に入るとオフコース好きな友達ができたり、時間だけはたっぷりある生活に突入したので、ちょこちょこオフコースを考える時間が増えていきました。
山際淳司さん「Give Up」や資料本の「はじめの一歩」という本を読んだら、メチャクチャ面白かったこともありますね。
大学を卒業するかしないかの頃、オフコースやチューリップが解散してしまったのですが、ライヴは観に行ってませんね。
・オフコース・ファミリー「はじめの一歩」(サンリオ)
大学を卒業してうろうろしていた時期に大ちゃんとバンブーさんと出会って、オフコース熱が再燃したり、その前にDJをやることになりCDを用意していったらCDJが使えず、オフコースのアナログ盤が安かったので、「あなたのすべて」を一曲目に回したりしました。
もう少し経つと、オフコースがシティ・ポップや喫茶ロックの流れとして扱われるようになったのかな。
円盤でオフコースのイベントやったり、mona recordsで、その辺の流れのイベントもやりましたね。
で、なぜかオフコースのイベントに携わることになって、企画書書いたりしました。
かなり際どいイベントになりそう(実際そうなった)ということで、イベントとはせずオフ会ということにするよう提案したり、会場のブッキングや司会にはやしいとさんをとか決めたのも私でした。
何回かイベントをやりたいということで、一回目のゲストは朝妻一郎さん(!)に交渉を。私以外のスタッフに強力なコネがあったので。
企画書の内容は「和製カーペンターズ」という惹句や当時カヴァーしていたバート・バカラックなどの洋楽を当時の状況と照らし合わせて話を聞きたいとかなんとか書いたような。
結局、朝妻さんからは「こういう企画にはもっといい人がいる(やんわりと断られたということやね)」と言われたらしく、武藤敏史さんを紹介されたのでした(ちなみに私は朝妻さんとは会っていませんし、武藤さんとは本番のみでした)。
武藤さん用に企画書を完全に書き直して、オフコースとの出会いや、当時のフォークのムーブメント、参加ミュージシャンの起用などについて聞きたいとか書きました。
割とあっさり武藤さんの出演が決まりまして、イベントの台本を真面目に作りましたね。
まだあるのかな?かなり細かくタイムテーブルまで記入した記憶があって、ほぼその通りに進行したのでした。
武藤さんにとりあえず絶対聞きたかったのはストロベリー(『ワインの匂い』やその時期のライヴのサポートを担当したバンド)についてと、オフコースのどの部分に惹かれたかということでした。
ストロベリーについての解答というか、その後三人が参加する経緯もわかって、本番中ですがものすごく興奮しました。
武藤さんがオフコースの楽曲で好きな曲を具体的に挙げて、コード進行や転調が他にはないと思ったエピソードなどは私の宝物ですね。
本当なら『Song Is Love』以降の話も伺いたかったのですが、その願いはかなわなくなってしまったことが残念です。。
イベントの同録MDは残ってますが、再生する機器がないので、思い出の中だけに残しておきます。
プライベートで聴く機会はあってもいいと思いますが、不特定な人を呼んで聴くのは無理ですねー。やっぱり。
で、急に思い出したことがあったので、追記します。ちなみに「さよなら」は次のベスト『SELECTION 1978-81』収録曲です。
「さよなら」をどうしてもヒットさせなければならなかった理由というのがありまして、それは「Three and Two」でも触れていたことなのですが、映画「銀河鉄道999」の主題歌をオフコースが担当する話があったのに、結局はゴダイゴが担当することになったのは皆さまご存知の通りです。
これはオフコースに問題があったというよりも、主題歌はコロムビア所属のアーティストにしたいという多方面からの注文があったなどの要因が重なった結果としてのキャンセルでした。
多分、「さらば宇宙戦艦ヤマト」で岩崎宏美さん(当時ビクター所属)と沢田研二さん(当時ポリドール所属)を主題歌に起用し、サウンドトラックで色々な問題が生じた結果だったのは容易に想像できますね。
ちなみに小田和正さんには脚本が既に届いていたという話ですから、かなりギリギリの段階でのキャンセルだったのでしょう。
ビッグ・プロジェクトがキャンセルされたことで、オフコース側が受けた精神的ダメージはかなりのものだったはずです。
その屈辱が「さよなら」を売るためのエネルギーになり、一旦は仕上がった「さよなら」を再構築したというところでしょう。
それまでのオフコースの楽曲と手触りが違うのは、その辺に理由がありますね。
これは水道橋博士のツイキャスでお馴染みの「さよなら」でシャウトが入っても違和感が少ないのとも繋がっています。
色々な『「さよなら」を歌ってみた』を聴くと「さよなら」がオフコースの中でかなり異質な曲だとわかったのが最大の発見でした。
このことに関しては、後日別の記事として書いてみたいと思います。
ちょっと脱線してしまいましたが、オフコースを初めて聴いて40年以上経って色々と経験できたのは素晴らしいことだなと実感しています。
武藤敏史さんに深く感謝します。 そして、オフコースのオフ会の関係者の方々、ユキタツヤさんにありがとうを。
大好きなベスト・アルバム・コレクションはこれでしばらくお休みをいただきます。
この記事でちょっとエネルギーを使いすぎましたので。
ではまたー。