アカの花

  その岬は紅花岬、「クークヮミサチ」と呼ばれていた。
 切り立った崖の岩肌を、海の側から正面に望むと、そう名付けられた理由が分かる。岸壁に見事な紅花の絵が浮かび上がるのだ。
 ただしそれが見られるのは夕暮れ時に限られた。きつい西日に照らされた時だけ、岸壁は海の上の巨大な天然スクリーンに様変わりする。一日の丁度その時にだけ、まるで紅花の花が咲き乱れているように、岩肌が鮮やかに色づくのだそうだ。
 飲んだくれた海人の間では有名な話だった。
 栄純達が子どもの頃はその真偽を確かめようと、岬の上から岩肌を覗き込もうとしたものだが、その度に、村の大人に見つかっては叱られた。普通の頭で考えれば、陸地から直角に垂れる岸壁を見ることは不可能だと分かるはずだった。
 かつてはそれなりに賑わいを見せていた栄純の村も、今では静かなものだった。もう紅花岬の名を知る者も少ない。栄純も一度はこの村を離れて暮らしていた。だが、慣れ親しんだ故郷の空気と、ふと肩の荷が下りる感覚は、いつまでも忘れていられるものではなかった。移り住んでいた町で知り合った妻を連れてこの地に戻ると、二人で農業を営み生計を立てた。
 その妻も昨年に亡くなり、それを機に、栄純は畑の土地のほとんどを手放した。子は遅くして授かった娘の恵子一人だけだった。結婚してこの村を離れた今でも、時々訪ねてきては、何かと家のことを手伝ってくれている。
 今日も恵子は栄純の家を訪れ、今は台所で夕食の支度をしている。刻み昆布と豚肉に、短冊切りにしたこんにゃくやかまぼこを出汁で炒め煮たクーブイリチー。味噌と砂糖に少々のにんにくを加え、三枚肉に絡めて炒めたアンダンスー。もやしと薄くスライスした人参にキャベツ、それを卵液に絡めた車麩と炒めて作るフーチャンプルーは、栄純の大好物だった。今取り掛かっているのは、白味噌で甘く仕上げる具沢山のイナムドゥチだろう。食欲をそそる匂いは湯気に乗って、玄関先の栄純の鼻孔をくすぐった。
 娘が妻から受け継いだ、この家に染み込んでいる、得も言われぬ香りだった。
 作業靴を履き、出掛ける事を台所の恵子に告げて、栄純は立ち上がった。
 その音を聞きつけて、恵子が声を掛けてきた。
「行ってらっしゃい。ねえ、健一を見ませんでした?」
「いや。そこら辺で遊んでるんじゃないのか?」
 健一は恵子の初めての子で、栄純の初孫だ。先程から家の中に姿は見えない。
「すぐに一人でどこか行っちゃうんだから」
 台所から姿を現した恵子は、エプロンで塗れた手を拭いながら言った。
「困ったわね」
 そう言いながらも表情は柔らかく、あまり心配はしていないようだった。
「お父さんはどうせ岬のほうへ行くんでしょう? お夕飯用意しときますから、遅くならないで下さいよ」
「ああ」
 栄純は一つ大きな背伸びをすると、玄関をくぐった。遠ざかろうとする背中に、恵子の声が追ってきた。
「もう歳なんですから、自愛して下さいよ。あんなに立派な木、放っておいたって、なかなか枯れやしないんですから」
 そんなことは分かっている
 栄純は心の中で呟いた。
「健一を見かけたらお願いしますね」
 なおも張られた声に、栄純は返事をせず、代わりに右手を挙げて見せた。庭に植えられたコクタンを横目に、岬へ続く坂道をゆっくりと下った。


 紅花岬は海に向かって緩く上った傾斜を描き、崖へと続く丘陵の端には一本のデイゴの木が立っている。いつからそこに生えているのかは誰も知らない。恵子の言った通り、胴回りが六メートルを超えようかという程の立派な大木だ。高さは優に十メートルを超え、太い枝が四方へと所狭しに手を伸ばしている。枝は不規則に、しかしバランス良く、頂から緩やかに屋根を下ろしている、その有様は、よく赤瓦の琉球家屋に喩えられた。枝先に朱色の花が咲くと、照り返す紺碧の海を背負って、美しくも勇ましく、また荘厳であった。
 かつての村人達は、度重なる雨風にも泰然自若としているデイゴを「御神木」として大事に扱った。村で子どもが産まれる度に麓まで連れて行き、祈りと供え物を捧げた。
 この木のように強く逞しく育ちますように
 栄純が産まれた時にも、両親が手を合わせたと聞いている。
 ふと、そんなことを考えると、自分がこの世に生を受けたその日から、ずっとあの木は見守っていてくれたのだ、と感謝にも似たこそばゆい気持ちが栄純の体を廻るのだった。
 そのデイゴを世話する事が、栄純の日課となっている。
 世話といっても高が知れていて、根周りの雑草を抜いてやり、虫に食われていないかを確かめるぐらいのものだ。最近はデイゴヒメコバチという、新種の虫による被害が出ていると新聞で見かけた。だが栄純の見るところ、岬のデイゴは何ともないようだ。
 かつては開けていた岬への道も、今では人ひとり通れるくらいの細い獣道を残すのみだった。岬の紅花を見ようと試みる者も、我が子の健康をあの木に祈る者も、もうこの村には残っていない。
 潮の香りが風に紛れて、鼻先を掠めていく。防風林のフクギ並木を通り過ぎ、目の前が開けてくると、視界いっぱいに晴れ渡る空と草原が広がった。海は穏やかな細波に、いくつもの白筋を輝かせている。あまりの眩しさに目が眩んだ。
 栄純には見慣れた景色だったが、微かな違和感に目を細めた。
 デイゴの木の麓、太い幹に半分ほど身を隠した人影がある。
 珍しく村の者が訪れたのか、もしかしたら観光客が紛れ込んだのかも知れない。栄純は藁の編み笠を押し上げた。笠に挟み込んで両頬に垂らした日よけのタオルで、顔の汗を拭った。
 そこに居たのは健一だった。デイゴの陰に隠れていて、表情は見えない。盛り上がった根の上に両膝を立てて座っている。
 栄純は健一の名を呼んだ。
「こんな所にいたのか。母さんが心配していたぞ」
 健一はこちらを振り向いたが、栄純の顔を確認すると、前へ向き直ってしまった。
 栄純は健一の隣まで来ると、腰を下ろした。健一は抱え込むようにした膝に顎を乗せて、広大な海を目の前に、手元のゲーム機へと視線を向けていた。
 ――確か、今年の春から小学生だったな
 栄純は何も言わずに健一の頭を少し乱暴に撫でてやった。
 イタイ、
との第一声と共に、健一が栄純を睨んだ。
 ふふ、と栄純は笑った。
「ここはな、オジーのお気に入りの場所なんだ。危ないと思って連れて来たことはなかったんだがな」
 美しいだろう?
 辺りをゆっくりと見渡して栄純が言った。
 健一は小さく頷いた。
「オジーもな、一人でこうして、ここに座って海を眺めるのが好きなんだ。こうしてるとな、心がすうって、綺麗になる」
 栄純は鼻から深く息を吸った。まるで煙草を味わうように、潮風を肺に溜め込んで目を閉じた。耳に届くのは、崖下に打ち付けた波の飛沫が弾ける音と、海原を吹き抜ける南風が、梢を揺すって奏でる響きだ。
 目を開けて、口からゆっくりと空気を吐き出した。
 栄純が顔を向けると、健一の視線はゲーム画面へと戻っていた。
「健一も一人になるのが好きなのか?」
 栄純は語りかけた。
 その問いに健一は答えなかった。栄純の存在などまるで気にしていない様だった。
 だがしばらくすると、「あーもうっ」と声を上げて、ゲーム機を乱暴に地面に放り投げた。
 そして両手を首の後ろに組んで海を見やったかと思うと、今度はばつが悪そうに背を丸めた。地面に項垂れて、薄っすらと靴下焼けが残る足首の辺りを掻き始めた。
「時々嫌」
「ん?」
「一人は、時々嫌い」
 健一の声はか細く、遠音に紛れ、隣にいる栄純が聞き逃してしまいそうな程に小さなものだった。デイゴの木陰に覆われているその横顔に、より一層の陰が差したように見えた。
 足下の草を千切っては捨て、千切っては捨てを繰り返し、健一が小さく息を吐いた。
「僕が悪いの。変だから」
 健一は過度の人見知りのせいもあって、意思表示の少ない子どもだった。思った言葉を口にするのに、人より時間が掛かってしまう。それを、大人や身内は辛抱強く待ってやることが出来ても、同世代の子ども達は、容赦なく置いていってしまうのだろう。
 健一は膝を抱え、身体をゆらゆらと前後に揺らしながら、
「別に友達なんかいらない」
と言い捨てた。
 栄純はその静かな無表情を見て、健一の本当に思うところを探ろうとした。
「不器用なところは、オジーに似てるな」
 そう呟いて、先程よりも一層強く、健一の、少し伸びた髪をかき撫でた。いつまでも止めない手を払いのけ、健一は栄純の顔を正面から睨み付けた。怒ると恵子に顔が似る。栄純は思わず微笑んだ。
 健一は一見、生命力の低そうな子どもに見える。日に焼けても青白く映る顔と、棒のように細い手足は彼を貧弱に思わせた。だがそれと相反するように、その瞳には煌々と力が漲っている。
「焦るな。友達なんていつの間にか、気が付かない内に出来ているものだよ」
 はっきりと健一の顔に、疑念の色が浮かんだ。物を言わずともその目は、「嘘つき」、と栄純に告げていた。
 頑ななその視線に栄純は苦笑した。
「昔はオジーも友達がいなくて、もうずっと一人のままでいい、なんて思ったりもしたもんだがな、・・・・・・」
 引き波が砂浜の文字を掬うように、予感のようなものが栄純の中を通り過ぎていった。
 栄純は自分を語るのがあまり得意ではない。記憶と言うものは厄介だ。ある日突然、乗り越えたはずの過去を引き連れて、築き上げてきた年月を、いとも簡単に蔽い隠してしまう。出口の無い闇の中に、ぽんと放られる。地面に踏ん張りを利かせる暇も無く、達磨落としのように足元から弾かれて、順繰り順繰り崩されていく。
 記憶というものは厄介だ。
 自分の中に在るはずなのに、果て知らずの海のように止め処ない。
 好むも好まざるにも係わらず、あらゆる情景が脈々と栄純の中に息衝いている。
 また大きく息を吸って、栄純は健一の目を見た。
「今はいるぞ。みんな離れてはいるがな」
 健一は、わからない、という顔をした。
「そんなの違うっ・・・・・・友達じゃないよ。いっつも一人だもん、おじいちゃん」
 健一にしては珍しく声を荒げた。栄純は一瞬呆気に取られたが、栄純の素直さが可愛くて、わはは、と豪快に笑ってしまった。
 栄純は、先程から自分が笑ってばかりいることに気が付いた。
「何がおかしいの」
 健一は頬を染めて言った。
「いつも一緒にいるのが友達でしょ? 違うの・・・・・・?」
「ああ、健一」
 栄純は息を吐いた。恥ずかしそうにしている健一を見て、気の毒に思った。少し気持ちよく笑い過ぎたかも知れない、と栄純は反省した。
「いやいや・・・・・・健一、お前の言うことは何も間違っちゃいないよ。ただな、いつでも傍にいるのだけが友達って訳じゃないんだ」
 栄純は息を整えてから話を続けた。
「オジー達はな、遠くへ離れていたって、助けが必要な時は皆、何処へだって駆けつけてやるのさ。まあ、足は遅くなったがな」
 そう言って健一を窺うと、でもさ、と言って、再び足元の草を弄り始めた。
 友達が欲しい、と思う気持ちも、煩わしいならいっそのこと要らない、と思う気持ちも、どちらも健一の本心だろう。今栄純が友達を持つことの大切さを説いたところで、すぐに理解しろという方が無理な話だった。
 まだ何かをぶつぶつと呟いている健一の様子に、栄純は小さく笑みをこぼした。
 全てのことに真剣に、悩んで、泣いて、喜んで、笑って。子ども達のそんな姿は、本当に愛らしい。
 何よりも彼らは、自分が子どもだった時を思い出させてくれるのだ。
 栄純は自分の老いた身体を擦った。血管の浮き出る己の腕をまじまじと見た。皮ばかりで皺の寄った、所々斑のある、涸れた枝の様な腕だ。時々無意識に震えているのに気が付く。足は走ることも難しい。だが有り難いことに、今もって、畑仕事を続けていられるくらいには、健康を保っていた。
 もうずっとこの身体で生きてきたのだ。
 それでもまだ不思議に思う。気付かぬ内に増えていく皺や、段々と鈍くなっていく感覚を。そして――この歳まで生きて来られたということを。
 子どもの頃は、歳を取った自分というものを想像出来なかった。若い時分にあっさり消えてしまうのではないか、と心のどこかで思っていた。しかしことごとく当ては外れ、栄純の身体は、今日も鼓動を刻み続けている。
 岸壁に波濤が砕けて、岬全体に轟いた。
 はっとして、健一に目を向けた。栄純が少しの間心ここに在らずだったことには、気付かれていない様だった。草を千切るのにも飽きたのか、今は遠くの海を見ている。眩しさに顔を少し顰めていた。
 栄純は、孫の汗ばんだ横顔をタオルで拭ってやった。
 そして、そろそろ帰ろうか、と声を掛ける寸前、一陣の風が、二人の間を吹き抜けていった。
 栄純の視線の先に、頭の黒い海鳥の小さな群れが現れた。岸壁に巣を作る渡り鳥だ。岬の訪問を日課にして久しいが、もう何年も見かけることはなかったのに・・・・・・。
 ――この木までくるぞ。いるのがアカだけだったらな 
 海鳥の翔る方から、久しい声が聞こえてくる気がした。それが空耳だということは栄純にも分かっていた。彼の声を最後に聞いて、もう随分と時が経つ。込み上げてくる切なさに、栄純は、少しだけ胸を締め付けられた。
 あいつと出会ったのは丁度、健一くらいの時だったか――
 物悲しい心憂さと、じわじわと湧いてくる温かさに、栄純は少しばかり、昔を思い起こすことにした。
「それにな健一、オジーの一番の友達なら、すぐそこにいるぞ」
 そう言って栄純は、二人がもたれて腰掛けるデイゴの木を指さした。
 健一が首を捻る。
「木・・・・・・? この木が、おじいちゃんの友達なの?」
「変か?」
 驚くというよりも呆れた表情の健一に、栄純はまた笑いを堪えなければいけなかった。自分で言いながらも、健一のその反応に無理は無いな、と思った。
「木、というかな・・・・・・」
 栄純はデイゴを見上げた。クローバー状の三枚葉が青々と生い茂り、射るような日差しを遮って、栄純達のいる丘に大きな影を落としている。枝葉が風に吹かれて、木漏れ日はまるで星空のように煌めいていた。
「この話をするのはお前が初めてかもな。オジーがまだ子どもの頃の話だ。ちょいと長くなるかも知れんぞ?」
 健一は返事代わりに、身体を栄純の方へ向けた。栄純は一つ頷くと、腰を上げてデイゴの幹にそっと触れた。黄土色に灰を被せた様な褐色の肌に、所々薄緑色の瘡蓋を付けている。そのざらつく感触を手に感じる度、栄純は穏やかな気持ちになれるのだった。
「オジーが『アカ』と出会ったのは、今日みたいに気持ちよく晴れた日だったな」
 季節も同じ、初夏の南風が吹きぬける頃。
 栄純が見上げた空は雲ひとつ無く、どこまでも青かった。


 初夏、デイゴは朱色の花を咲かせる。紅花岬のデイゴも徐々に花を付け、一日ごとに目を見張るほど、その数を増やしていた。嘴のような蕾が枝に近い方から開いてゆく様は、幼い栄純にバナナの実を彷彿とさせたものだ。
 本格的に咲き始める頃になると、岬に近づく者はいなくなる。
 紅花岬のデイゴが花咲くと、嵐がやってくる――
 皆、古くからの言い伝えが本当であることを知っているからだ。岬のデイゴがりっぱな朱色の屋根を作ると、必ず天候は荒れ、海がうねりを上げた。村人は各々の家屋や田畑の対策に追われた。
 今年も違わず、少しずつ風が強くなり始めている。
 その岬に、栄純は一人立っていた。
 栄純は負けず嫌いだった。グループの輪に加われば、そこで一番になれないと気がすまない。人に出来ることは自分にも出来ないと悔しい。だからすぐに機嫌を悪くして、気が付けばいつも一人になっていた。原因が自分にあることは分かっていたが、悪いことだとは思っていなかったので、特に直そうとは思わなかった。
 そして、一人になっても負けず嫌いに変わりは無いのだった。
 今、村の子ども達の間では、誰が一番先に岬の紅花を見られるか、と競争が起こっている。立って覗くのは危険なので、手前の方から腹這っていき、崖から必死に顔を突き出すのだが、それで岸壁の正面を見ようと言うのは到底無理な話だった。上から見ても岩肌の形は意味を成さず、眼下に広がる海に肝を冷やすだけだった。
 「漁夫になった奴が一番乗りか」と皆で笑い合う。その繰り返しだった。
 それならば、誰よりも早く見てやろうと、栄純は毎日誰もいない時間に挑戦していた。そして、子ども達も近づかない今こそが、一番乗りのチャンスだと思った。
 栄純はデイゴの木を見上げた。その枝の中に、一際太く長く、海の方へと伸びているものがある。崖から突き出ているそれに登ればあるいは、と前から考えてはいたのだが、岬のデイゴは村の「御神木」である。登っているところを誰かに見つかれば、ただでは済まされないだろう。
 ザッと音を立てて吹き抜ける風が、全身を打ち付ける。細い体で踏ん張りを利かせ、栄純は覚悟を決めた。
 「御神木」に手を合わせると、注連縄をとっ掛かりにして登り始めた。どうにかして、目的の枝まで辿り着くと、思い切り力を入れて揺らしてみたのだが、びくともしない。腹ばいになり、枝に身体を押し付けて、胸から腹の辺りを擦りながら、慎重に先端の方を目指した。
 しばらく進んで、どこまで来たのか気になり下を覗いてみると、丁度陸と海の境目、崖の淵の所だった。
 ごく、と唾を飲み込む。急に自分の体が頼りなく思えて、栄純は重心の置き場を忘れそうになった。いつもの穏やかさとは打って変わり、岬の風は緩急を付けて栄純を掠めて行った。
 とりあえず今は、進む事だけに集中しなければ。
 恐い気持ちを押さえつけて、栄純は再び進み始めた。
 大丈夫、もう少しだ。もう少しで――
「・・・・・・っ」
 ゴールの枝先を目前にして、気が付かない内に油断していたのだろうか。
 突然の突風に、体を支えていた栄純の右足がバランスを崩した。
 そこからの出来事は、時が止まったかのように、ゆっくりに感じられた。支えを無くした足は新たな物質を探してもがいたが、体は引きずられるように傾いでいった。胴体は力なくそれに従い、栄純は最後の望みをかけて両手に力を込めたが、無常にも右手は空を掴んだだけだった。
 栄純の全てを繋ぎ止めようとして、焼けるような熱さが左手を襲った。
 まずい、と思った時には視界が逆さまになっていた。
 全てが見えているのに止めようが無かった。
 頭の中が真っ白になり、条件反射で、栄純は目をぎゅっと瞑った。
 一瞬訪れた静寂の後、自分の鼓動だけが波打って、耳に響いていた。
「・・・・・・?」
 栄純がいつまで待っても衝撃は来なかった。
 おかしい。
 そっと目を開くと、栄純の足は宙に浮いていた。不安定に揺れる自分の身体に声も無く驚いて、助けを求めるように天を仰いだ。
 栄純の左手首を、誰かがしっかりと握っている。
 手の主は軽々と、栄純を枝の上へ引き上げてくれた。
 やっとのことで一息つけた栄純は、初めてまともに自分を助けてくれた者の顔を見たのだった。
「・・・・・・誰?」
 礼を言うのも忘れて、思うことそのままを口にしてしまった。
 そこにいたのは、背丈は栄純と同じくらいの、村の中では見たことの無い子どもだった。
 その異様な姿に、栄純は思わず彼を凝視した。肌の色から着ている服まで、兎に角全てが赤かった。赤というよりは橙に近いだろうか。目を覆うほどに伸びた髪が、木漏れ日を受けて、きらきらと輝いていた。
 背後にあるデイゴの朱と混ざって、時々輪郭が曖昧になった。
 多分、自分と同じ男だろう、と栄純は思った。
「栄純のこと知ってる」
 彼は言った。
「あっ、何で俺の名前・・・・・・」
 思わぬ反応に栄純は仰け反った。今度はしっかりと身体を縫い止めたはずのデイゴの枝の上から、あわや再び滑り落ちるところだった。
「みんな知ってる。いつもここから見てる」
 彼はそう言って、ぽんぽんと、自分と栄純が座る枝を示してみせたのだが、栄純がいくら記憶を辿っても、彼の顔には見覚えが無い。初めて見る顔だ。村の者ではないのは確かだな、と栄純は思った。
 彼はただにこにこと笑っている。栄純はその余裕に感じられる態度に段々と腹が立って来て、
「名前は?」
と、ぶっきらぼうに尋ねた。
「名前?」
 彼は不思議そうに聞き返した。
「お前の名前だよ。お前は俺の名前を知っているのに俺はお前のを知らないなんて、不公平だろ」
 助けられた身でありながら、栄純は問い詰めた。つい先程自分が命を落としかけたことなど、もうすっかり忘れているのだった。
 彼が首を捻る様にして言った。
「『栄純』みたいな名前、無い」
 栄純には意味が飲み込めなかった。
「はあ? 名前が無いって、そんな事ある訳・・・・・・」
 彼の前髪の間から、瞳がはっきりと見えたせいだろうか。その笑顔が一瞬悲しんでいるように見えて、栄純は言葉を続けられなかった。
 だが栄純が瞬きをする間にその表情は消え失せて、気が付くと彼は先程と変わらない笑みを浮かべていた。
「・・・・・・・」
 栄純は彼が本当の事を言っているような気がした。
 二人は少しの間見つめ合っていた。
 栄純は顎に手を当てて考えた。
 名前が無いなんてどこの田舎者なんだ? いや、田舎者だって自分の呼び名ぐらいは知っているだろうに・・・・・・。
 しばらくの沈黙の後、思いついて栄純は手を打った。
「アカ、今日からお前の名前は『アカ』だ」
「アカ?」
 時間をかけて考えた割に、結局は最初の印象そのままの名前になってしまった。
 アカは頷くと、満面の笑みで喜んだ。自分を指さしては、アカ、アカ、と繰り返す。その様子を見ていると、大げさな奴だ、とは思ったものの、栄純の方まで嬉しくなってきた。
 二人は一緒になって笑った。
 その日から、彼の名前は「アカ」になった。
「お前変な奴だけど、友達になってやるよ」
 栄純が言うと、「友達」と言う言葉に、アカはまた首を捻った。
「友達って特別なんだぞ。いつも一緒で・・・・・・」
 その時、遠くの方から栄純を呼ぶ声が聞こえた。そこでやっと栄純は、自分が御神木に登ったままであるのを思い出したのだった。
「じゃあな。また来るよ」
 そう言ってデイゴから下りると、栄純は足早に岬から離れた。
 今一番恐れているの誰かに見つかることだったが、焦る心とは裏腹に、栄純の顔には笑みが浮んでいた。
 今日はたとえ叱られても平気かもしれない。
 岬の紅花を見られずに終わったことなど、もうどうでも良くなっていた。

 それからというもの、栄純は毎日のように、アカのいるデイゴの木を訪れた。何して遊ぶ訳でもなく、ただ他愛も無い話をするだけだったが、不思議と飽きることは無かった。
 アカと出会ってしばらく経ったある日、いつもの様にデイゴの木の上で二人が過ごしていると、村から続く岬への入り口から、人影が近づいて来るのが見えた。栄純と同じ村の子ども達だった。
 彼らの一人が栄純に気が付いて、木の麓まで足早に駆けて来た。
「おい、これ『御神木』だぞ。大人に見つかっても知らないぞ」
 同じ組の一だった。
 一は気さくで誰とでも仲が良く、頭も良いし体操も出来た。学級の中でも皆から一目置かれていたし、村の者にも好かれていた。
 正反対の栄純は、彼と話したことが数える程しかなかった。
「栄純、聞こえてるか? 丁度一人足りないんだ。一緒にやろうぜ」
 一は栄純に一緒に相撲をしないか、と誘いに来たのだった。人数が足りていないというのだ。
 人気者の一が自分に話しかけて来たことを少し嬉しく思ったが、どう答えたら良いのか分からず、栄純は口を閉ざした。
 彼は「丁度一人」と言った。
 栄純のすぐ隣に座るアカの姿が、どうやら一の目には映っていないらしい。
 ――やっぱり、他の奴には見えないのか・・・・・・。
 それを口に出すのは憚られて、栄純は黙ったままでいた。何だかアカとの間に流れる空気が、突然重くなったような気がして、今すぐここから走って逃げ出したい気分だった。
 一が早く諦めて、仲間の元へ戻れば良いのに、と思った。声が届いてないと勘違いしているのか、まだ下の方で「おーい」、と栄純を呼んでいた。
 痺れを切らして断ろうとした栄純に、アカが言った。
「栄純が他の友達と遊んでるの見るの、アカ、好きなんだ」
「うわっ」
 背中を押された栄純は、結構な高さから落ちたのに無傷だった。
「お前、危ないことするなぁ」
 突然目の前に飛び降りてきた栄純に、一は目を丸くした。
 危ないとかそういうことよりも、アカにまるで「いらない」と言われた様な気がして、栄純は頭にきた。デイゴの上のアカはいつもの笑顔で、それを見た栄純は余計に腹が立った。
 わじわじーする。
「行こう一」
 誘われるままに他の者達と一緒に遊んで、しばらくはアカの所へ行こうとはしなかった。自分から戻るのは「負け」のような気がして嫌だったのだ。
 だがそのお陰で、栄純にはアカの他にも友達が出来た。
 あれがアカなりの優しさであったと気が付くのに、それ程時間は掛からなかった。くだらない意地も消えて、申し訳なさそうに戻ってきた栄純を、アカは変わらぬ笑顔で迎えてくれたのだった。
 
 歳を取って大きくなっても、栄純は岬へ通い続けた。長い間を一緒に過ごして、アカが自分達とはどこか違うことには気付いていた。デイゴの上から動かず、出会った時の少年の姿のままなのである。でも栄純にはそんなことは関係が無かった。
「精霊とかって、大きくなったら見えなくなるって言うけどさ、もう俺年長組みだよ。多分死ぬまで変わらないよ」
 そういって栄純が笑うと、アカも笑った。栄純はそのことを少しも疑ってなどいなかった。
 しかし、その言葉が叶うことは無かった。


「戦争、って知ってるか健一」
 健一は頷いた。栄純はまるで、ものすごく遠くに在るものを見ようとする様に、目を細めた。
「とにかく、沢山の人が死んだ。オジーは助かったけど、学校の友達も、オジーの母さん、健一の曾祖母さんも、その時に亡くなったんだよ。もちろん悲しかった。悲しかった・・・・・・でもなぁ」
 生きて村に戻ってきた時、栄純の心を占めていたのは虚しさだった。

 生き残れた喜びも、沢山の人を失った悲しみもあったけれど、それよりも大きな、説明しようの無い大きな穴が、ぽっかりと、栄純の胸に空いていた。それは他の村の人達も同じようだった。
 栄純が岬へ向かうと、そこには、暴風で葉を無くしてはいるものの、ほとんど原型を留めたままの御神木があった。その木を見上げて、栄純は語りかけるように言った。
「お前も生き残ったんだな・・・・・・なあ、アカ。そこに・・・・・・」
 いるんだろ?
 続く言葉は嗚咽に消された。その場に膝折れた栄純の目から涙が溢れた。後から後から流れ出し、止まらない。
 生活は元通りになっても、昔に戻れることは絶対に無い。村人達はこの思い出の詰まった村から離れて行った。そうすればまるで、戦争のことも忘れられる、とでも言うように。それは栄純も同じであった。ただ今は、この村を離れてでも辛い気持ちを忘れたい。
 それは、アカとの別れも意味していた。
 栄純が見上げる先に、アカの姿は見えない。
 栄純はやっと分かった。精霊は大人になるから見えなくなるのではない。彼らを見なくなるのは、栄純達の方なのだ。忘れたい、離れたい。そう思ったことで、栄純とアカが出会えた奇跡の魔法は解けてしまった。
 ただ漠然と、これだけは分かった。
「俺、もうお前には会えないよ」


「アカは幽霊だったの?」
 健一が聞いた。
「キジムナーは知ってるだろ?」
 栄純の言葉に、健一は頷いた。
「見た目はそのまんまだ。肌が赤土みたいな色してて、ひょろっとしてて細長くて。身長はちょうどお前ぐらいだったな。健一、お前もずいぶん細いな。ちゃんと食べてるのか」
「食べてるよ」
 健一がどうでもよさそうに答えた。
「キジムナーはお化けじゃないの?」
 健一がじれったそうに聞いた。
「うーん、悪さをするような奴じゃなかったのは確かだ。思い出すのは笑い顔ばっかりだな。ただ子どものままだったから、オジー達とは違うんだろうな。精霊ってやつかも知れない。ここに住んでいたから、この木から産まれたのかもしれない。」
 ずっと気にはなっていたのだが、つまるところ、栄純にとってアカが何者かは重要ではなかった。謎は謎のままでも構わなかったのだ。
「何で会えなくなるのさ?」
 健一が聞いた。
「おじいちゃんが裏切ったから?」
 健一の言葉に栄純はぎくりとした。何か冷たいものが、首の後ろから背中へと伝っていった。
「ああ、・・・・・・オジーはそう思っている。オジーの方がアカを置いていったんだからな」

 現実では悲観にくれている暇などなかった。いや、ただ多くの人が死者に対する一番の餞を分かっていただけかもしれない。健康で生きているのならそれは贅沢だ。家を建てろよ、子を産めよ。もう戦やならんどー。
 栄純は申請が通りしだい、本土へ行こうと決めていた。沖縄に職が無いわけではない。むしろ人手は足りなかったし、中でも大工はどこに行っても必要とされた。以前は農耕一筋だった栄純の父も、大工になった。畑の土地は残ったが、再開するにはそっくり土を入れ替えなければ駄目だった。それでも戦後の食糧難で、需要はあったはずだが・・・・・・。父は元来無口な人であったし、母を亡くしてからは、二人の間にほとんど会話は無かった。
 栄純達の家は荒れ果てていて、雨風は凌げても生活は出来ない有様だった。父は大工仲間と共に、コンクリートの家を建て直した。
 本土に行くというのを、父には当日の朝に告げただけだった。彼はただ「そうか」とだけ返事をして、いつものように大工仕事へ出かけて行った。
 出発の日には、どこから聞きつけたのか、一が見送りに来た。彼は幾分か怒りのこもった声で言った。
「帰ってこないつもりか?」
 一とは収容所で会ったきりだった。あの時はお互いに生き残ったのが信じられないという思いだった。彼自身は両親と、下の兄弟全てを亡くし、今は親戚を頼って学校に通っていると言っていた。
 それからは二人とも忙しさを理由に会っていなかったのだ。
「いいや、正直言って考えてないよ」
 本音だった。
「ここで出来ることは沢山あるだろうが」
 一が、ふん、と鼻を鳴らした。
「おい、本気で止めてるのか?」
 栄純は意外に思った。本来なら一の方が本土に行きそうな性格をしている。
「お前は昔からどこか浮世離れしている」
 一瞬、一がアカの事を言ったのかと思って、栄純はドキリとした。
「根無し草みたいにふらふらしてさ。気付いたら、みんなの輪からはずれている。あっちに行ったところで、お前はそうに違いないよ」
 彼の言うことは正しいのかも知れない。だが栄純は心に決めてしまっているのだった。それは一にも分かっていただろう。
「ふん。ウフソーや」
 もう知らん、というように頭を振って、一は立ち去った。栄純は胸を撫で下ろした。
 負けず嫌いだった俺はどこへ行ってしまったのだろうか。

 勤め先の工場では身を粉にして働いた。休む暇の無い忙しさは、栄純にとって有り難かった。
 体が重くなり、意識の沈んでいく瞬間が、毎日待ち遠しかった。疲れ果てて眠るために働いた。日々をそうやってやり過ごしていた。
 不思議と悪夢を見ることには慣れていった。起きた時の異常な不快感をなるべく受け流して、これは夢だと繰り返し、自分に言い聞かせることが出来たからだ。
 栄純にとって厄介なのは、良い夢の方だった。
 時々アカの夢を見る。それは決まって穏やかで、心地の良い夢だった。
 潮を含んでべたつく風に、デイゴの枝から足をぶらぶらさせて笑っているアカは、いつもどこか儚げで、栄純はただこの日々が続いてくれることを心の奥底で願っていた。
 額の写真に収めるように、切り取られた時間は永遠だった。
 そんな夢を見た時は、朝日に目を開けるのが惜しかった。ゆっくりと正気に覚めてゆく我が身を栄純は呪った。
 目覚めなければ良かったのに。
 そんな事を願う自分に嫌気が差した。そして、夢の中の自分があまりにも幸せそうなので、あの夢のような日々は、はたして本当に存在していたのだろうか? と、考えるようになっていった。
 栄純が思い描いただけの、ただの『良い夢』だったのではないだろうか・・・・・・?
 もしそうだとしたら、アカが栄純以外の誰にも見えなかった事にも納得がいく。
 ――アカは初めから夢の中の住人で、
 ――彼は初めから、この世界にはいなかったのだ。
 今までのことは全て、栄純が見ていただけの、儚い夢だったのかも知れない。多分、子ども特有の熱病が見せた、蜃気楼だったのだ。もうあまりにも遠くに離れてしまって、見えなくなってしまったけれど・・・・・・。
 ふと、デイゴの木の下で咽び泣いた時の、あの空しさが戻ってきた。あの時は幸せというものをまだ理解していなかった。
 思えば、彼が隣にいる時はいつも幸せだった。ただ笑いあった日々が、掛け替えの無い大切なものだった。それを身を以て知った今、栄純は初めて孤独というものを感じているのだった。
 今の自分はすっかり擦り切れてしまっている。
 記憶を焼き払えれば良かったのだが、それが叶わぬのなら、感情というものを、心から切り離してしまいたかった。アカが目の前に現れて、その方法を教えてくれればいいのに、と思った。自分から遠くに追いやっておいて、何とも虫のいい話だ。栄純は身勝手な考えに自らを鼻で笑った。
 頭がおかしくなりそうだ。
 何故こんな思いをしてまで生きているのだろう。「命どぅ宝」というけれど、そんな重荷を背負って行く資格が、果たして自分には有るのだろうか・・・・・・。
 それでも手放せずに来れたのは、自分がその犠牲の上に生かされている事を知っているからだ。
 もしこの命と引き換えに誰かが生き返るというのなら、そうしてしまいたかった。
 自分の願いがどれほど罰当たりなのかは分かっている。だが、来る日も来る日も、その考えは栄純の頭の中を支配した。口に出す言葉が少なくなる一方で、頭の中では陰惨とした思いが、五月蝿くなっていくばかりだった。 
 煩わしい。全てが煩わしい。
 栄純はただひたすらに体を疲れさせた。
 働いた。働いて、眠って、夢を見た。
 時には涙を流れるに任せ、一人でいられることに感謝するのだった。

 そんな日々の中、ある夢を見た。それは昔実際に、アカと栄純が話したことのある内要だった。
 ある日やっぱり気になって、彼に聞いたことがあるのだ。
「アカは『何』なんだ?」
 栄純の問にアカはきょとんとした。どうも、栄純の聞きたいことが伝わっていないらしい。
「何って、なに?」
 アカが問い返した。栄純は、どう言ったものかな、と悩んだ。
「ほら、俺達は人さ。人間さ。アカは、違うだろ?」
 アカは何も答えなかった。何故栄純がそんなことを聞いてくるのか、不思議に思っているようだった。その時、アカは鏡を見たことなんかないだろうな、と栄純は思い至った。
 持ってきてやったらどんな反応をするのだろう。いや、そもそもキジムナーや幽霊なんかは鏡に映らないか・・・・・・。 
「栄純しか知らないな」
 アカはそう言って笑った。
「そっか。家族もいないのか? オトーとか、オカーとか、ニーニーネーネーは?」
「・・・・・・」
 アカは何も答えず、表情も変えなかったのだが、何だかもうこの話はよした方が良さそうだ、と栄純は思った。
「オジーオバーも、ここにはよく来たって聞いてるけどな。友達は俺が初めてか?」
「これは栄純だけ」
 そう言ってアカは手をぱたぱたと、自らと栄純の間で行ったり来たりさせた。
 誰とも喋ったことが無いのか・・・・・・。
「へぇ、そうか」
 栄純は少し、身体が熱くなった気がした。
 アリやキノボリトカゲや、赤い嘴に黒い頭をした海鳥、祈りを捧げる村人達。アカはそれをずっと、木の上からただ見ていたということか・・・・・・。アカはそれらの名前さえ、栄純が教えるまで知らなかった様だった。
 栄純があの日、デイゴの木に登って、足を滑らせて、アカに助けてもらわなければ、いったい彼は今頃どうしていたのだろうか。
 アカ。栄純だけが知っている、初めての友達。自分の中にしか存在しない、誰とも分かち合えない栄純だけの思い出。 
 栄純が絶望に打ちひしがれている時は、迷い込んだ暗闇に、ただ一筋の光が届くようにと、希望を引き連れて夢に現れる。それを頼りに帰って来い、とでも言うように。だが栄純にとっての帰り道は、心を引き裂かれるように辛いものだった。彼と一緒にいたい。何も知らなかったあの頃の世界に留まって、全てを忘れて笑っていたい。
 それでも夢からは覚めなければならなかった。
 アカから貰った全てを忘れないために。
 幸せは確かに存在する事を、栄純は知っている。アカと過ごしたこの世界での日々が、栄純の心に、深く刻み付けられていた。
 今がどんなに辛くても、この思いを捨て去ることは出来なかった。
 
 その日、涙と共に目覚めた栄純は、ふと、アカにとっての自分はいったい何であったのだろうか、と考え始めたのだった。

 そんな時に出会ったのが妻の貴美子だった。彼女に出会うまで、栄純は家庭というものは自分と縁の無いものだと思っていた。
 声を掛けて来たのは彼女の方だった。職場でも評判の良い彼女が、何故自分なんかを気に掛けてくれるのか、栄純には分からなかった。
 自分は何も持っていない空っぽの人間だ。
 その気持ちを、正直に打ち明けた事がある。
「こうして真面目に生きているのは、そうするべきだと思っているからでしょう。今までのあなたが、ちゃんとそこに在るじゃない。全然からっぽじゃないわ」
 その言葉で、栄純は彼女と生きていくことを決めたのだった。

 恵子が産まれた時の事は、鮮明に覚えている。栄純の心は不安でいっぱいだった。
 自分の下に生まれて来る我が子は、いったい何を思うのだろう。
 初めて腕に抱いた時は、あまりにも小さくて、触れるのが恐ろしかった程だ。不安定な頭を支えながら、皺くちゃの顔を覗き込んだ。
「自分の父親がこんなに臆病者だって、知ってるか」
 出来ることなら、この子の世界はずっと光に満ち溢れていて欲しい。栄純は沢山の事を願った。
「恵子。お前に見せたいものがいっぱいあるよ」
 不安に思うのはお前を幸せにしたいからだよ。    
「ああ、お前の命どぅ俺の宝ど」
 私もこうして母から生まれてきたのだ。目が熱くなった。


「村を去った後、再びここを訪れたのは、オジーの父さんが亡くなった時だ。この村を離れて、もう何年も経っていた」
 どん底に沈んでいる時は両親を怨んだ。生きる意義の見出せない人生には色が無かった。こんな世界に生まれて来たことを呪いもした。
 栄純を残して逝ってしまった母。何も返せなかった。
 同じ悲しみを背負っていたのに、見向きもしてくれなかった父。
 だが同時に感謝もしていた。この世界でなければ出会えないものに、栄純は確かに出会って来たのだから。
「その時な、やっぱり気になって、デイゴを見に来たんだ」
 栄純は驚いた。あんなに立派だったデイゴの木が、枯れかけて今にも死にそうだった。
「デイゴとアカは一つだった。孤独になることの辛さは知っていたはずなのに、オジーは自分のことに精一杯で気付いてやれなかったんだ。自分なんかいなくても、こいつは一人でやっていけるだろう、ってな。だからその時、もう一生こいつの傍を離れないと決めた。世話したかいもあって、夏には葉も生い茂るようになった。でもな、何年経っても・・・・・・」
 朱の花だけはまだ咲かない
「どうして? まだ、アカは怒ってるの? 許してくれてないの?」
「いや、花が咲かない原因は分からないけどな、許すとか許さないとか、そういう事じゃないんだよ。ただじいちゃんが、今までの恩返しをしたいだけなんだ。・・・・・・長いこと話に付き合わせてしまったな、健一」
 気が付くと、岬は薄く橙色を帯びてきていた。ずいぶん長いこと話し込んでしまっていたようだ。栄純は立ち上がって草を払うと、大きく背伸びをした。
「なんて言えば良いのか。要するにな健一、何かを貰うだけじゃなくて、自分からも何かをしてやりたいって思う相手を、一人でも持てば良い。・・・・・・さあ、もうこんな時間だ。母さんが家で夕飯を作って待っているぞ」
 帰ろう
 そう言って手を差し伸べた栄純に、健一は俯いた顔を上げようとはしなかった。
 栄純がしばらく待っていると、おずおずと手を重ねて来た。
 二人は一緒に帰り道を歩き出した。紅花が見える頃だな、と栄純は久々の余韻に浸っていた。そして少し疲れてもいた。経験を語るのは、こんなにもエネルギーを消耗するものなのか・・・・・・。いつの間にか時の経つのも忘れていた。恵子が何と言うだろう。健一を庇ってやらねばな――。
 少し歩いたところで、健一が歩みを止めた。不思議に思った栄純が顔を覗き込もうとすると、
「ゲーム、忘れた」
と行って、健一はデイゴの元へ駆け戻って行った。
 栄純は健一が戻ってくるのを待とうとしたが、彼はデイゴの木の麓で立ち尽くしたままだった。不思議に思い、栄純は健一を追いかけて戻った。
「大丈夫か?」
 栄純が近づくと、健一は屈み込んだ。唇を噛み締めているようだった。
 やはり、話すべきではなかったのかも知れない。
 栄純は自分の不器用さに嫌気が差した。
 栄純としては、健一をただ励ましたかっただけなのだ。だが健一は繊細だったし、もしかしたら余計に傷付けてしまったのかも知れない――
「嘘つき」
「ん?」
 栄純が心配事に注意を取られていると、健一が顔を上げて、栄純を真っ直ぐに見上げてきた。
「嘘つき。会いたいんでしょう?」
 見たことのない強い眼差しで、健一はそう言った。その言葉に、栄純はたじろいだ。健一はデイゴを振り向いた。立ち上がり、栄純が止めるのも聞かずに、その幹をどんどんと叩いた。
「健一、止めなさい。お前の手が傷ついてしまうよ」
 栄純は慌てて、健一の身体をデイゴから引き離した。
「お願い、アカ。おじいちゃんを・・・・・・許してあげてよ。友達なんでしょう?」
 健一の目には涙が溜まっていたのだが、その顔は悔しさに怒っているようだった。栄純はその事にも信じられない思いだった。
 栄純は健一を見くびっていた。彼がこんなにも純粋で、熱くなって、行動を起こすような子どもだとは思っていなかったのだ。
 成る程、自分も歳を取ったものだなと、健一を見て感心するのだった。
「・・・・・・もう良いんだよ健一」
 栄純は、自分の為に健一がここまでしてくれたことに驚き、同時に嬉しくて胸が熱くなった。もうそれで十分だと思い、自然と笑みがこぼれた。
 しかし、まだデイゴに向かって言い続けている健一を止めようとした栄純の手は、目の前に広がった光景に動きを止めてしまった。
「・・・・・・きれい」
 そう呟いた健一の声も、栄純には届いていなかった。
 視界に舞う朱色の花。
 満開の花をつけるデイゴの木。
 アカ?
 ――これは栄純の白昼夢だろうか
 止まっていた時が一気に溢れ出したかの様に、デイゴの花が鮮やかに咲き乱れていた。一瞬の内の出来事に、栄純は、ただ呆然として立ち尽くした。
 健一が笑いながら、舞い落ちた朱の絨毯の上を駆け回る。
「おじいちゃん、アカ、許してくれたんだね」
 栄純は力なく首を振る。いつの間にかその頬には涙が流れていた。健一が心配そうに顔を覗き込んでくる。栄純は顔を両手で覆うと、今度は強く首を横に振った。
 違う
 許したから花を咲かせたんじゃない。アカは初めから、誰かを憎むとか、そういうことをするような奴では無かった。ただただ優しく、いつも笑って、何でも受け止めてくれる。そんな奴なのだ。
 だからこれは紛れも無い、アカがただ彼らの為だけに咲かせてくれた花だった。
 姿が見えなくとも、栄純には分かった。
 今まで知らず知らずに溜まっていた、心の奥の罪悪感のようなものが、静かに消えさっていくのを、栄純は確かに感じた。咲いた花は、アカもまた、ずっと栄純の友達でいてくれたことの証だった。
 一度は置き去りにまでしたのに、まだ友達でいてくれるのか? そうだ、お前はいつだって俺のために――
「有難う、健一」
 栄純がその頭を優しく撫でると、健一は照れくさそうに笑った。その笑顔が夕日に照らされて、デイゴの花と同じ朱色に輝いた。
 有難う、アカ
 岬全体が夕焼けに染まり、朱色で埋め尽くされた頃、アカの花が咲くデイゴの木の上で、アカが笑ったような気がした。



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