【小説】わたしには何も
わたしには何もありませんでした。その日は敷き布団と掛け布団とそれぞれのカバー、それとぬいぐるみをひとつ、それだけの価値がありました。なんども洗い直したカーディガンから散らばるたばこの残り香の幻想が、いつまでもいつまでもわたしを責めたてているのです。お前には何もない、何もないと。
その声の主はわたしです。わたしはわたしの声しか覚えていられないのです。あの日のわたしは単機能電子レンジと同じ価値でした。その前の日はカクテル二杯とチョコレートケーキでした。わたしには何もありませんが、わたしと何かを交換することはできるようでした。
わたしはそのことをわかった日から、形のない物物交換を続けました。それはわたしにとって生きるということでした。肺が空気を取り込み吐き出し心臓から全身へ濁った血液を送り続けることは、わたしにとって、偶然に付属した機能でしかありませんでした。わたしには何もありませんでした。もし何かがあるとしたら、とても交換なんてできなかったでしょうから、わたしはこれからも何もないままでいるつもりです。声が枯れ心臓がこわばり血が絶え肺がひからびてなくなるころ、残った絞りかすのようなものは、きっとかけがえのありようのない、わたしの唯一の宝物でしょうから、今からその特別な日が楽しみで楽しみで仕方ないのです。