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【小説】やさしいレンズ③

(①) (②)
 ゆかり号の終了がいよいよ明日に迫った日、僕は終電に揺られていた。写真部でコンクールの祝勝会があったのだ。外は月に雲がかかり、暗い窓には僕のみじめな顔が映るだけだった。
「マサ兄」
 改札を抜けると、聞き覚えのある声に気づいた。見ると、リュックサックを背負ったユウトが隅っこに突っ立っていた。なんだ、お前か……そう思った直後、僕は慌ててそばへ駆け寄った。
「お前、何でここに!今何時だかわかってるのか?」
「マサ兄、僕……」
「ああ、お兄さんですか?」
 うつむくユウトのそばに、警官なのか駅員なのか、制服を着た初老の男性が近づいてきた。僕が何か言う前に、ユウトがうなずく。
「よかったねえ、やっと来て。この子、お兄さんと帰るからって、ずっと待ってたんですよ」
 そう言って笑うおじいさんの、言っていることが僕には理解できなかった。お兄さん?待ってた?
 気づくとユウトが、すがるような目で僕を見ていた。珍しく僕の袖を、離すまいと強く握って。その様子がいつになく必死そうで、僕はうろたえた。

「もう暗いから、気をつけて帰るんだよ」
 優しいおじいさんに見送られて、僕はできたばかりの弟と、夜道を歩き出していた。
「……何で、そんな嘘を。僕がいつ、お前の兄さんになったんだよ」
「泊めてください」
「は?」
 ユウトは立ち止まってもう一度、泊めてください、と頭を下げた。
 突然のお願いに、僕はますます面食らった。何言ってるんだよ、帰らなきゃだめだろう、親が心配するぞ――言わなきゃいけない言葉が、頭には浮かぶのに、どうしても口まで下りてこない。顔を上げたユウトの表情は、さっきと変わらず必死で、真剣だった。
「……親の許可は?」
「もらった」
 僕はため息をついた。小さな子供に泣きつかれて、つまり、うなずくほかなかったのだ。
 三人で丸テーブルを囲んで座り、母は客用の茶碗に嬉しそうにご飯をよそっていた。ユウトはやはり慣れないのか、やたらと僕に近かった。一人っ子の僕は、弟がいればこんな感じなのかなあ、と思った。そうすると、相手をしてやる面倒臭さもべたつく肌のわずらわしさも、ほんの少しだけ好きになった。
 突然ユウトを連れてきたとき僕は、実は母の返事を一番気がかりに思っていた。何せ、同世代の友人を泊めたことはあっても、年の離れた子供を連れてくるのは初めてだった。親戚でも、ご近所さんでもないのに。
 しかし母は話を聞くと、驚くほどすんなり了承してくれた。
「ご飯まだでしょう?手を洗ってきて」
 おかげでユウトの緊張も、少しほぐれたようだった。
「いただきまーす」
 手を合わせると同時に、チャイムの音が飛び込んできた。母が、はーい、と席を立つ。こんな遅くに誰だろう……そう思ってユウトを見たら、ひどく青ざめていた。僕はとっさに母を引きとめた。
「僕が出る」
「えっ?でも……」
「いいから、母さんはユウトにご飯」
 母は少し悩んでから、じゃあお願いね、と台所に戻った。ユウトにご飯、何だかペットのような言い方だと気がついて、小さく笑った。玄関を開けると、案の定、見知らぬ女性が立っていた。品の良い服装と香水の香り――僕はこの人が「カオリさん」だと確信した。

(つづく)

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