【小説】やさしいレンズ⑤【終】
(①) (②) (③) (④)
「……親に、何も言わずに来たのか」
布団の上で、ユウトは黙ってうつむいた。怒られると思ったのだろう、萎縮して、首を小さく引っ込めていた。僕は胸の締めつけられる思いだった。
こんなにおびえてまで、ゆかり号が見たかったのか。
朝早くに出発するゆかり号を見るには、まだ暗いうちに家を出なければならない。でもそんなことは、カオリさんが許してくれないだろう。だから、家を飛び出してきた。ゆかり号を見るためだけに。
僕はユウトの頭をくしゃりとなでた。
「この年で家出なんて、なかなかやるじゃん」
そういって笑いかけると、ユウトはうつむいたまま、ごめんなさい、と呟いた。何度も繰り返し、ごめんなさい、ごめんなさい、と。もういいって、と言うと、今度は鼻をすすりだした。白いシーツに、次々と涙の染みができるのを、僕は黙って見つめていた。
電気を消してから、明日駅に行くか、と尋ねた。暗がりから、うん、と返事が聞こえた。しばらくすると寝息が聞こえてきて、僕も目を閉じたが、目がさえて眠れなかった。
実は今日、ユウトのノートをこっそりのぞいてしまった。あのとき慌てて隠したページには、電車と、ユウトと、女の人の絵が描いてあった。それが誰なのかは、だいたい見当がつく。
「お母さん……」
ユウトの寝言を聞きながら、ケースの中のあいつは、明日の出番にうずうずしていた。
目覚ましよりも早く起きた僕らは、薄暗いホームで電車を待っていた。ユウトは僕の首にぶら下げたカメラが気になるようで、壊さないよう注意しながら、ちょっとだけ触らせてあげた。恐る恐る手を伸ばすユウトを見て、僕は初めてこのカメラを持った日を思い出した。
一眼レフは威風堂々と光を浴びて、手にずっしりと重かった。レンズを覗き込めば、空も、近所の犬も、鉛筆も、台所も、全く違った表情を見せてくれた。この世界には、美しいものばかりだった。
そのとき、スピーカーからアナウンスが流れた。
「まもなく三番線に電車がまいります。危険ですので、黄色い線までお下がりください」
僕もユウトも息をのんだ。わずかな時間が、百年にも千年にも感じられて、僕はいつの間にかカメラを構えていた。
突然、レンズの向こうを電車が通り過ぎた。錆のないつややかな鉄肌が、藤色に光る勇ましい姿――それは、かつてのゆかり号だった。僕はシャッターを押すのも忘れて、見入った。若い女性が、小さな子供の手を握って、僕らに手を振っていた。もしかして、あれは――
カメラを下ろすと電車はまだ来ていなかった。アナウンスが、機材トラブルのため到着が遅れることを告げた。もう一度覗いてみたが、今度は何も起こらなかった。
理解できないままユウトを見ると、彼もまた、空っぽの線路をじっと見つめていた。何かが見えていたみたいに。いや、見えていたのだ、きっと。
僕は無意識にシャッターを切っていた。ユウトの姿はあまりに健気で、美しかった。ああ、そうか。
一瞬を、永遠に。美しいものを、美しいままで。
僕に足りなかったのは、こんなにも単純な感情だったのだ。
「カオリさんはさ」
ユウトはまだ前を見ている。
「ユウトのこと、嫌いなわけじゃないと思うよ」
わかってるよ、と呟くのが聞こえた。わかってるか。わかってるよな、そりゃ。
「……来るよ、マサ兄」
アナウンスをBGMに、僕は相棒を構えた。ゆかり号の軋む音が、もうすぐそこまで迫っていた。
(了)