わが愛する田舎の、泥くさいサッカークラブへ
「松本って、どんなところ?何があるの?」
愛する松本市。その魅力がわからない。
中信地域に暮らして、ときおり出たり入ったりしながら30年近くになる。それでも、この街の何がいいのか本当にわからない。何を愛しているのかも、わからない。
めぼしいテナントがないので、流行りものは都心まで買いに行く。新宿までは特急あずさで片道約2時間。おなじみアルピコ交通の高速バスなら片道約3時間かかるけど半額で行ける。
バスタ新宿ができる前、西口のヨドバシカメラの前に停留所があった。キラキラの街明かりに照らされて、年季の入ったダイナミックストライプの車体が滑り込んでくる。あー、今日はコンセントないやつ。
服やらコスメやら映えるスイーツやらでパンパンのショッパーを大事に抱えて乗り込むと、ささめく乗客のイントネーションに心が緩む。ああ、帰ってきちゃった。夢の国はおしまいで、おうちへ帰らなきゃ。
見るところなんて城くらいしかない、って自虐を込めてよく言う。
街を歩いていると外国人にときどき道を尋ねられる。どの国の言葉だろうと、「Matsumotojo」だけは聞き分けられる。その瞬間、目の前の人は「外国人」から「観光客」に変わる。心のシャッターがスッとひらいて、顔が勝手にほほえむ。
「Have a nice trip!!」と手を振りながら、城くらいしかないけど城って何が楽しいんだろう、って心がくすむ。たまには自分でも行こうかな。友達が来てくれたときに案内できなきゃ、かっこ悪いし。
田舎、田舎、とにかく田舎。
Suicaは使わないから持ち歩かない。市街地から車で10分も離れれば、一面の田んぼと畑。その中にたたずむアルウィンは「堆肥くさい」ってアウェイサポに不評だ。干し草と、黒々した土と、動物の糞の匂いが、風に乗ってスタジアムに漂う。私たちはその中で声を張り上げて歌い、息を切らして跳ねる。
別に慣れっこだ。田植えだって稲刈りだって生まれたときから毎年あるし、通学路には畜産試験場があって、毎日その横を通って登校してはウサギとチャボの小屋掃除をしたものだ。なんて、そういえばもうすぐ冬野菜の時期になるけど、今年は実家でホウレン草作ってるかなあ。
ああ、うんざりするほど何にもない。
「松本っていいところだね」ってみんな言ってくれるけど、「そうかなあ」って曖昧に笑うしかできない。
見るところ、ある?楽しいところ、ないでしょ?そりゃ、好きな人にはたまらないかもしれないけど、城と旧制中学校とサイトウ・キネンは全国へ胸を張るには渋すぎる。
長野市のほうが新幹線も通っているし、あこがれの軽井沢も近い。善光寺の門前町のほうがずっとずっと栄えていて、楽しくないですか?
「長野県」って言ったら真っ先に出てくるもの、なに?
善光寺。お蕎麦。もしかしたら、おやき。リゾートといえば軽井沢。ウィンタースポーツなら白馬か志賀高原。松本城も松本空港も上高地も山賊焼きも、たぶんずっとずっと後のほうだ。
「松本って何があるの?」って聞かれても上手に答えられない。おいしい飲み屋もB級グルメも、実はたくさんあるラーメン屋も、別に松本じゃなくたっていい。
私たちって、何?何に胸を張ったらいいの?
「松本山雅ってすごいね」
そう。だから、その言葉がうれしかったんだ。
「負けたくない」って言葉はたぶん正しくない。本当は勝負なんてしたくないから。でも、「長野っていえば善光寺だよね」なんて言われちゃうと、「こっちにもちゃんと街があるんだよ」って、それだけだ。
筑摩県庁に放火されたとかどうでもいい。善光寺にひがみの感情もない。
新幹線は松本に来ないし、アーティストの長野公演はビッグハットだけど、別にそれでいい。
「たまにはこっちにも」って思わなくもないけど、行かれない距離じゃないし、嫌いじゃないから用があれば行く。
長野は長野で、愛される素敵な街だ。でも、私たちだって私たちの街を、本当は愛している。「長野県」の中のひとつとして。
だから私たちは、「信州」って言う。「長野県だけど長野市とは違う街がちゃんとあるんです」って言いたくて。
華やかなものなんて何もないけど、田舎くさくてみんな馬鹿にするかもしれないけど、ちゃんと私たち楽しく暮らしているんですよって、それが言いたいだけなんだ。
「城くらいしかない」って自虐しつつ、その城よりかっこいい城にまだ出合ったことがない。
澄んだ空にそびえる漆黒の天守閣。鮮烈な朱のアーチを描く埋橋。お堀の水面にたゆたう逆さ城と、優雅に泳ぐ白鳥。
英語のガイドマップで「Welcome to Japan‼」の文字とともに最初のページで紹介されていたときは驚いて、誇らしかった。
いつだったか東京の居酒屋で食べたブランドトマトは、実家の畑でとれたのと同じ味がした。
子供の頃は家の庭にあったニワトリ小屋で餌をやっては、産みたての卵を持ち帰って食べた。うちの田んぼでとれた炊き立ての新米に、まだ温かい殻を割ってつくる卵かけごはん。それがどんなに贅沢か、大人になってから知った。
自炊をはじめて15年以上が経った今でも、スーパーで米を買ったことがない。足りなくなったら、いつでも実家へ催促に行ける。
朝起きて、ゴミ袋を下げて外へ出る。目の前に眩しく広がる、北アルプスのモルゲンロート。そのふもとを、タタン、タタン、と上高地線の白い車体が駆けていく。よく冷えた空気がツンと鼻の奥を抜けて、目覚めたばかりの身体の芯まで染みわたる。
ゴミステーションは当番制だ。「おはようございます」「いつもありがとうございます」。白い息を吐きながら笑顔で挨拶を交わす。スーツ姿でゴミ袋を置いていく人に「いってらっしゃい」と声をかければ、ほほえみが返ってくる距離感。
ここに暮らしてよかった。この景色が、この街がずっとずっと続いてほしい。
過疎化が進んで、どんどん年寄りが増えて、優しいジジババでそこいらじゅうがあふれかえる。
定年まで働き終えて、畑づくりにますます精を出すようなジジババが、キックオフの何時間も前から集まって、アルウィンの片隅で自家製の野菜を交換する。手ずから漬けた野沢菜やらっきょうを仲間にふるまう。「これ、前回のおみやげ!持っていきな!」なんて、背筋をぴんと伸ばした還暦の戦士たちが、八戸やら讃岐やら鳥取やらの土産を毎回配っている。どこどこの何がうまかったよ、そんなふうに健康的な白い歯をのぞかせて笑っている。まるで緑の甲冑をまとった歴戦の猛者だ。
私くらいの歳なんて、まだまだガキだ。へばっていられない。「来週は稲刈りだから来れねぇだよ」なんて笑う人生の大先輩に、「じゃあ、私が2倍歌いますね!」なんて生意気な口をきく。ああ、負けていられない。若者がなんとかしなくちゃ。私たちが勝たせなくちゃ、私たちの松本を。泥くさくて下手くそで情けなくて、でもこんなに愛おしい、私たちの松本を!
大好きなんだ!この街が。何もないこんな田舎が!
こんな田舎に夢を、泥だらけで熱狂していい理由をくれた松本山雅FCが、愛おしくてたまらないんだ!
息を吸って吐いて、ゴール裏に立つ。夏が終わって、澄んで乾いた空気がけぶる。涼やかな風になびくJリーグフラッグの向こうに、うっすらと冠雪をまとい始めた稜線が果てしなく伸びる。青空に舞う無数の赤とんぼの羽が、チカチカと西日にきらめく。
ああ、負けないでくれ!下手でいいから、最後まで下を向かないでくれ!
俺たちの、私たちの、どうか自慢の戦士でいてくれ!!
ダービーなんて、やりたくない。
いくら「ダービーは素晴らしい!」って言われても、中から見れば泥仕合のようなもの。でも、みんながそれを待っている。醜い確執をヒリヒリした情熱に変えて、熱く胸を焦がす戦いで昇華しようとしている。
なら、せめて。みっともなくても負けたくない。堂々と顔を上げたい。
勝ち負け?違う。賭けているのは「誇り」だ。
「俺らが信州」って言葉は、「俺たちここで生きてるんだ!」っていう、魂の叫びなんだ。
弱いんだからしかたない。それはどうしようもなく事実だから。
だけど、違う。「そこで諦めない」から、今の松本がある。
諦めていたら、松本山雅FCなんてきっとなかった。「長野があるから」って遠慮していたら、松本なんてきっとなかった。
ただ生きてる。この信州で生きている。長野側だってそれは同じだ。
「俺たちだってここにいるんだよ!お前らばっかりデカい顔すんな!」
いまさら領地を奪い合いたいわけじゃない。でも、手を取り合って同じものになるには色が違いすぎる。
だからいちいち「誇り」を賭けて戦うしかない。めんどくさくて、うざったくて、ちっぽけな争いだと思うけれど、そうしないと穏やかじゃいられないから。
明日も笑って暮らすために、正面切って喧嘩して、認め合うしかない!
ああ。この街が好きだ。この街を誇らせてくれた松本山雅FCが好きだ。
だから私たちを、松本を、大声で叫ばせてくれ。
「松本、俺の誇り!」って、声高らかに歌わせてくれ。
ボロボロになるまで戦って、「あいつらもすげーじゃん」って言って、「でも俺らが信州だ!」って笑って、帰ったら土まみれで庭の草刈りをするような日常を、これからも暮らしたい。
100年先まで、できればそれが続いてほしい。
今日もひとつになって、追い求めろ、俺らと!
信州松本のFootballを、行け山雅!
勝者が「信州」。ただ、勝つのみ。
[了.]