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「関心領域」にすべき社会問題が多すぎる

2024年150日目。
ふと思い立ち、レイトショーで『関心領域』を観てきました。(いや「聴いてきた」というべきか?)

自分が語るまでもなく、既に多くの方の感想で、アウシュビッツから聞こえてくる「音」とその影響、登場する2匹の犬への関心の違い、途中で挿入される「ヘンゼルとグレーテル」等々について指摘されているので、ここでは異なることを2つほど。

ひとつは「凡庸な悪」。(まあこれも多く言及されていますが。)
嘔吐、つまり自分が何をしているのか認識しているにも関わらず、その任務に忠実に、かつ、能力を十分に発揮して取組む主人公の姿が、マンガ『ペリリュー』の一巻に出てくる日本軍の指揮官に重なりました。「凡庸な悪」については、私も長らく誤解していましたが、このような悪は、主体的に行われるものであり、やはり断罪されてしかるべきものだと感じます。
余談ですが、少し前に読んだジーン・シャープ『独裁体制から民主主義へ』では独裁への抵抗として「非協力」ということが挙げられ、そこにはサボタージュも含まれているのですが、能力が高い人は、基本的に自分が有能であることを見せたいので、往々にして自分の能力を存分に活用してくれる側の方に寄せられていくのではないか、という気がする。

もうひとつは、「関心領域」を拡張することの限界について。
既に多く仕掛けられている認知戦をかい潜って、自分の身近なこと以外にも関心を振り向けるとしても、この世には実に様々な社会問題がある、いや、ありすぎる。
その全てに等しく関心を向けることは現実的ではないわけで、じゃあ何を以って自分が関わるべき問題の優先順位をつけたらよいのか?自分の周囲に起きていることが、真に重大であることに気づくためにはどのような準備や判断方法が必要なのか?

そんなことを考えてしまいました。

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