雑誌的な空間
2024年159日目。
柳瀬博一さんの企画・「メディアの話をパワポも映像も使わずにやる夕べ」、その3に行ってきました。
これまで3月4月と2回開催され参加してきたのですが、5月は開催をキャッチできず、もうこれまでかと思っていたのですが(開催されたとしても仕事で行けなかった可能性が高かったですけどね)、杞憂でした。(前2回は下記リンク参照)
さて、3回目に参加するにあたって、流石にそろそろ読まないと失礼だろう、ということで、事前に柳瀬博一さんの著書『国道16号線 「日本」を創った道』(新潮文庫)を読了。
柳瀬さんの主張は、「膨大な知識」をベースに持つことで、「少ない具体例」から「蓋然性の高い仮説」を導き出すことができてしまい、それをフィールドワークや他の方の主張などと突き合わせながら行なっているのではないかと感じました。(仮説演繹的?)
ただし、この『国道16号線』については、知識として楽しい部分(米軍基地と日本の戦後の音楽、徳川家康前の江戸など)もあったのですが、全体として見た時、国道16号線の西と東は一体的ではないように感じられ、また「国道16号線エリア」が広く取られ過ぎているようにも見え、切り口としては私には今一つピンときませんでした。P82-83の図などもそうですが、他のエリア(国道16号線エリアとそれ以外、関東と関西など他の地域など)との比較がないと、説得的ではないように思います。
『カワセミ都市トーキョー』(平凡社新書)の方も購入したので、後ほど読んでみたいと思います。
このことを念頭に、今回彼の語りを聴いたわけですが、さらに下記のような特徴があるのではないかと感じました。
・膨大な知識に加えて、仕事などを通じて居合わせた様々な場面や体験や人脈があり、それが「少ない具体例」から「蓋然性の高い仮説」を導き出すセンスとして発露している
・講義においては、既に完成された端的な仮説がまずあり、それを証明する事例や経験を山ほど語り、しかし、山ほどあるために例外もわかっていて、サービス精神旺盛なため、その例外までも語りに含めてしまうものの、その内ちゃんと仮説に戻って話が続く…語りの流れが、この繰り返しになっていること
さて、今回の講義。肝心の内容ですが、再び「メディアの三層構造」(①コンテンツ、②プラットフォーム、③ハードウェア)に一旦立ち戻り、「コロナ禍等により、インターネットというプラットフォームに一回全部コンテンツが載った」という状況から、各種メディアがどうなっていくかを考えていく、という展開。
その中で、「雑誌」というメディアの特性について、「雑誌は最初から偏見が込められていて、その偏見に共感した人が購読者になっていること」に加え、「正に「雑」であること、雑であるために想定外のことが起きること」という分析が語られました。そこから、日本のインターネット黎明期やBL誌の「ジュネ」を引き合いに出しながら、「雑」が生み出すクリエイティビティは、AIによって最適化されてしまい勢いを失うが、ではこのインターネット時代においてこの「雑誌的な空間」はどうやったらできるか?というまさかの次回に向けた「宿題」が出されたのでした。
この宿題を突き詰めて考えるのは容易ではない、というか、そもそもどのようなことを答えとして出すべきか、ちょっと不明瞭に感じますが、そこを無理矢理考えてみると…
実体験としても信じている「流れが先で構造が後だとコミュニティは継続される」から考えると、
「雑誌的な空間」を「場づくり」ではなく「流れを捕まえる」方向、つまり、「新しいもの好き
」(そういえば、今回の質疑応答の中で、「(編集者の性である)新しいもの好きという性質は、才能であって育てるものではない」という発言も柳瀬さんよりありました)とか「得体の知れないものに相対した時の熱量が高い」という性質を持つ人が知らず知らずに追いかけているようなテーマの発見と、そのテーマに基づいたリアルな「場」の設定、そして、実際にその「場」に招待する人の(AIによる)最適化、つまりは「仕組まれた出会い」のようになるのではないか…違うかな?もちろん、今すぐできるものではなく、現実的とは言えないアイデアですが。
皆さんはどのように考えるでしょうか?
さて、今回の余談。
茨城県土浦市の柴沼醤油さんが、新橋(というにはかなり虎ノ門寄り)に食事処を出店しているのを発見!
開店とほぼ同時に入店し、ランチで生姜焼きをいただきましたが、まるですき焼きをいただいているかどう錯覚するような贅沢な味!クラフトコーラも付いてこの場所でこの値段はかなり頑張っているのでは…と思ったら、皆さん気づいているようで、あっという間に席が女性で埋まっていました。
そのすき焼きのランチもあるので、次回は是非ともいただきたいと思います!