取り戻したゆとり
先日、自分のキャパオーバーで
ゆとりをなくしたことを書いた。
溜まった水は蒸発させてしまおう
心身のエネルギーを光に変えて。
それには美味しい物を食べたり、
見たことのない景色を見て癒され
知らなかったことを知り、無心で散歩する…
そう意気込んで旅へ出た。
激しい雨があがって、蓮池で見たのは
大きな葉の上の見事な水溜り
後で調べると蓮の葉の表面にある油分や細かい突起に
撥水効果があり綺麗な水玉の状態で溜まるよう
(有名なのかな、無学なもので)
前に自分の「針のようなプライド」に刺さる
ということを書いたが
細かい針(突起)は集まればすごい効果を生むよう
いっそ尖りに磨きをかけるのも一つか(やめとけ)
そもそも葉が柔らかいから雨の降る間は撓んで
ある程度は弾くのだろうか
折れないように撓む
つまりゆとりも大事だよなぁとも思う
“ゆとり世代”って
馬鹿にされてるのか
詰め込みすぎず、つまりこれまでより不足しての揶揄か
いずれにしても一線引かれるようで
(ま、世代だから線引きするそりゃそうなんだけれど)
当時は反発を覚えた気もする
だけど「ゆとり」って本来
おおらかで、人や空間を包み込む余裕がある
または時間やお金、物が豊かで…
そんなイメージ。
撓むための柔軟さや
真っ向から受け過ぎず少し流したり
空いているスペースに好きな物を詰める
そういうことも身につけたいもの
“ゆとり世代”
この頃は、なんか響きがいいな、と思う。
こんな事をつらつら書けるくらいの
ゆとりを取り戻した私は
調子に乗って歌を詠む
「蓮の葉や そんなに水溜め 重くない?」
もちろん0点だった(夫評)
0点上等、空っぽ上等!
またいっぱい詰め込もう