見出し画像

毒親からの解毒。12年間我慢していた感情にようやく気付いた。

2012年教員採用試験を受験し、期限付き任用として採用される。これは、採用された1年間、どこかの学校で試験的に採用され、また翌年に試験を受けて、合否が決まるというもの。

期限付きではあるものの、2013年1月に勤務先も決まり、さぁ、4月から教員として頑張ろうと張り切っていた、私31歳の時。

私「お母さん、これから教員としてとりあえず頑張ってみるわ。」
母「あ、お母さんね、年末の検査でガンってわかったの。」

お、おぅ。

実は、年末に実家へ帰省した時に母が体調を崩し、絶対に病院に行きたくないと駄々をこねる母を引っ張って救急病院へ行き、その時は帯状疱疹だと診断を受けるも、少し心配な部分があるので精密検査をしましょうと言われ、その後検査を受けたのだった。その結果をこのタイミングで言われたのである。

ステージ4、余命1年。白血病。

実家へ帰って、看病しようかどうか悩んだ。勿論、教員は夢だったし、せっかく勤務校も決まったし、頑張りたい。でも、母の最期に面倒をみないのは、、、どうしたら良いものか。。。悩んだ。しかし、実家を飛び出た2006年25歳の時、これからの人生、自分のために生きると決めて出た。だから、教員として働くことを選択した。

勤務先の最寄りが、品川駅だったため、金曜日の夜に学校を出たその足で新幹線に乗り、病院まで行って母と面会する。しかし、体調が悪い時は5分くらいで帰ってほしいと言われる。仕方ない。

8月の夏休み、骨髄移植が決まる。
親子でドナーが決まればそれが1番良かったが、私も弟も母と型が一致せず。しかし、ありがたいことに骨髄バンクへ登録してくれた方との型が一致し、移植が決まる。

移植前後、しばらく様子がよかった。
好物のバナナも食べた。

しかし、9月頃容態が悪化。2学期始まってすぐの出来事。父は時間問わず、母の容態を伝えるために電話をかけてくるが、さすがに授業中なので出られない。夕方ようやく折り返しをすると「なんで、電話に出ないんだ!母親が心配じゃないのか。」の説教。

はー。。。

10月頃いよいよ危ないかもしれないとの連絡があり、2学期で、一番忙しい時期ではあるものの、毎週金曜日に実家へ向かう。

当時付き合っていた今の夫と相談し、もともとは採用試験に合格したら結婚しようと約束していたが、母のためにと、このタイミングで入籍を決意する。また、病院の先生と、母を結婚式に参加させたいと相談すると「3月くらいまでもてば、多少、外出できるかもしれないから、そこでやるのがいいかもしれない。」とのことで、病院にも近いチャペルを大急ぎで予約の申し込みをする。しかし、学芸発表会の担当をしている等々、、、もろもろ忙しすぎたため、一番早く入籍の手続きが出来るのが、学芸発表会が終わる11月2日。何の記念日でもないが、2013年11月2日私31歳この日、入籍をする。そして結婚式の日取りも大急ぎで決め、2014年3月28日に結婚式の手配をする。

しかし、12月にいよいよ危篤の連絡が来てしまう。12月17日夕方、通知表を入力していると、父から学校に電話が掛かってくる。「母さんが危篤だから、何があっても帰ってくるように。」すぐ、副校長に相談し、家族の一大事だから、とりあえず帰りなさいと言われ、今後何があっても良いように、授業の準備等を済ませ、新幹線に乗る。

12月17日夜、病院到着。
先生「急いでいらしたと思いますが、まだ危篤ではありません。少し容態が悪いことをお父さんに伝えたところ、少し大げさにとらえてしまったかもしれません。これまでもそういったことがあったので。」
あー、まぁ昔からよくあることだなと納得。

翌日より母は、ICUに移り、私はそこのソファで寝泊まりすることとなる。父は、駅伝があるとのことで、母がもともといた病室のベッドで駅伝を見る。私は、先生から言われた「毎日声を掛けてあげて下さい、聞こえてますから。」という言葉を信じ、手や足を揉みながら話しかける。入籍して、結婚式も控えていること。それが5日続き、いよいよ12月23日、先生から「そろそろかもしれないから、ご家族そろっていて下さい」と言われ、そのタイミングで弟はトイレへ。そうすると心電図がピーと音を立てる。先生から「あれ、息子さんは?」と言われ、母に「母さん、○○がまだ来てないから、少し待って!!」と声を掛けると心電図がピピッと音を立てて戻る。弟が戻ってくる。「お母さん、○○来たよ!!」と言うと、ピーと音を立てて、もう二度と心音が戻ることはなかった。

2013年12月23日 母永眠 享年55歳

母が、夏の骨髄移植の前に「家のお母さんのタンスにお金が少し入っているから、それと大事な指輪があるから、何かあったらそれを持っていって。」と言われていた。母の葬式の手続き等々済ませ、実家の母のタンスを見ると、中身が何も入っていないのである。父に聞くと「母さんの物は全て捨てた。」とのこと。父は、知っていた。母がタンスによくお金を隠していることを。私のタンスも探ったことがある。
当時は、それに対して何の感情もわかなかった。

しかし2025年の今、母が亡くなってから12年。
カウンセリングを受けることにより、毒親からの解毒をしていると、最近そのことをよく思い出すようになった。何故か。

私は、父のしたことをすごく怒っていて、許せないと思っている。ようやく、そのことを実感することが出来たのだ。当時その気持ちを心の奥底にしまってしまい、12年間その感情を無意識に我慢し続けてきた。しかし、今、少しずつ心を開放していくと、許せなかったその当時の感情がでてきたのである。


私は、父が許せない。
怒っている。
酷い。
なんて酷い父親なのだ。
ようやく自分の心の核の部分に触れることが出来た。私がもらえるはずだった最期のプレゼントすら受け取れなかった。
それが悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
ようやく自分の感情に気付いた。


私は、すごく悔しかったんだ。
12年間、そのことに全く気付かなかった。

あぁ、私は悔しかった、
悲しかった、そうだったんだね。
今はちゃんとその感情に気付いて、実感できる。

12年もかかってしまった。

12年も、かかってしまった。

私の中にある、無意識の悲しみが、
ようやく出てきてくれた。

あの時から吐き出せなかったこの思い。

辛かったね、私。


その後も、結局母は結婚式に出られないから、結婚式は取りやめると駄々をこねた私を夫は説得し、ウェディングドレスも全て選ぶのを放棄した私の代わりに夫が手配してくれ、しかも式当日に私は40度の高熱を出し、それでも親族だけで式をした。色んな人に迷惑をかけたが、今では結婚式をして良かったと思う。


あれから12年。
ようやく解毒されようといている。もし、毒親で苦しんだと感じている人は、無意識に我慢している感情を開放してほしい。
私もまだ時間はかかるかもしれないけど、
今後もゆっくり解毒していこうと思う。

m_douzono

いいなと思ったら応援しよう!

m_douzono
投げ銭大歓迎です☆