手記録-団藤重光と死刑制度
白鳥決定の研究で、僕は団藤重光を知りました。その時に彼の裁定に対する人道的な姿勢を感じ取った僕は、団藤さんについてもっと知りたいと思いました。
死刑制度について、僕は反対です。でも僕の意見が現代社会の死刑制度問題の終着だとは思いません。僕の知見は限定的で、自分の思想を確かめるためにもほかの意見が聞きたいです。
死刑制度に対する僕の意見
そのうえで僕は死刑は廃止すべきと考えています。
それは死刑というものが刑だとは思わないからです。刑というのは、法を犯したものを懲らしめ、社会復帰を果たすものです。果たして死刑に社会復帰の要素が一ミリでもあるのでしょうか。加えて僕は、犯罪者に対して刑を与えて懲らしめることについても反対です。犯罪者に対しては常に更生の機械を与えるべきだと考えます。罪というのが犯罪者ひとりの肩に圧し掛かることが疑問なのです。犯罪が起きた要因は個人ではなく社会にあるのではないかと僕は考えています。
きっかけはトマス氏、ズナニエッキ氏のポーランド農民という論文を知ったときです。19世紀のアメリカ・シカゴではポーランド移民は犯罪組織に繋がっている危険な民族だと思われていました。しかし二人の著者はこれを、ポーランド移民に対して法を犯さなければ明日生きることもできない状態を強要していたシカゴの社会的背景に問題があるのではないかと指摘したのです。
これは現代の社会諸問題にも通じることです。死刑制度もです。犯罪者が犯罪者になった原因は社会にあるかもしれない。なのにこれを個人の責任として裁くことに僕は納得がいかないのです。
永山則夫元死刑囚の「無知の涙」というのが話題になりました。彼が犯した犯罪は自分を取り巻いていた社会に要因があって、その責任も社会に帰されるべきという主張が感じ取れます。社会に責任転嫁して自分を肯定している書物だと批判もあります。ですがこの手記は序盤から後半にかけて大きく変化していることに注意してください。彼は無知であったが勉強の末に自分の心境を雄弁に言語化できるようになった感があります。そして客観的に自分の過去を回想しようとしているように感じました。
ただすべての犯罪が社会が誘発したとは僕は思っていません。
団藤重光の死刑についての考え
団藤重光さんは自身が担当したある事件の裁判で、被告の死刑を確定させました。団藤さんは痛切な経験をしたと語っていました。
事件は状況証拠のみによって一審、二審とも被告に死刑判決が下されました。直接証拠は全くないそうです。被告はそのまま上告しました。団藤さんは被告側から、無罪を主張する明らかな証拠の提出がなされなかったので、上告を棄却しました。しかし団藤さん自身はこの事件に対して犯人が本当にこの人なのか確信しきれておらず、不安が残っていました。しかし法規定に従い、死刑を確定させました。有名な話ですが、その時に傍聴席から人殺しと罵られたそうです。僕は判決に対して裁判官を批判するのは違うなと思いましたが、だからこそ法規定を変えるべきと団藤さんは考えたのでしょう。
これを転機に団藤さんは立法による死刑廃止を強く主張するようになったのです。
授業で白鳥決定について解説がありました。最高裁が示した再審開始についての基準はその後の重大事件で無実の人間を死刑台から生還させることに繋がりました。これに携わった団藤さんは固すぎる立法の扉についてもまざまざと実感していたんだと思います。
当時の再審請求は針の穴にラクダを通すより難しいと揶揄されるものでした。白鳥決定直後、四つの事件で立て続けにさい再審により無罪となりました。これには団藤さんはかなり衝撃を受けたそうです。明治から続いてきたことです。今まで再審請求の壁に阻まれ死刑判決が覆せなかった冤罪が相当な数になるこことが想像できます。
結局のところ、団藤さんの死刑反対の理由は誤審の可能性にありました。僕とは違う理由でした。人間は間違うことがあるのは当たり前で、そんな中で取り返しのつかない死刑制度というものが存在してはいけないと考え死刑に反対をしていました。
死刑制度の賛否は、誤審の可能性をどの程度許容できるかという感受性の問題なのだそうです。授業内でも無実の人間が死刑で処されてしまうことは絶対にあってはならないと強調されていました。
最後に
しかし最近の下級審では以前より簡単に死刑が下されますます。団藤さんもこれには苦言を漏らしています。最近ではSNSなんかでも被害者への同情からか死刑を求めだしたり、または既に下された判決の刑が軽すぎるとか、いまいち感情に流され過ぎた意見が司法を攻撃しているところをよく見かけます。司法はあくまで法律に基づく機関ですから、このバランスが壊れないことを祈るばかりです。