《あとがき》唐牛のケンタロウ

人語を話す唐牛という存在

まず、60年安保のもとで全学連を率いたある指導者がいわゆる元ネタです。彼は全国の学生を率いて時の内閣と対決し羽田空港や国会前などで安保闘争に全霊を捧げた人物です。彼は特に織田信長のような偉業を成した人物ではないので世間的にもあまり知られていませんが、私の民衆心理の理解において彼は重要な人物です。

余談

そして、大きな社会的なメッセージ性を持たせて書いたこの小説は僕の修辞能力の限界によってこの程度に抑えられてしまいました。残念です、誰かがリメイクしてください、、

権利問題の提唱と思考のすすめ

今回のテーマである権利問題は僕の単純な疑問から生じたものです。発達障がいとして知能レベルが5歳児程度であっても、この方が人であるというのは揺るぎない事実です。しかし自我を持ち人語を話し思考がある生物は見た目と出自が違えば人として扱われないのでしょうか。
この根本的な議題というのは人の定義に迫る問題です。
私が私たる要素はなんだ、人が人たる要素はなんだ。こういう疑問をつきつめた先に権利問題の答えもあると考えています。
人から生まれたら、それは人なのか。
思いやりがあれば人なのか。
人型なら人なのか。
僕はどんな意見も受け止める用意はできています。
あなたが人間だということを示してくださいと言われたら答えられるように、自分を見つめたい。
そんなきっかけになる作品になれば、僕はもう十分です。
生き物が喋り出す物語は世にごまんとあって、そのいくつかは身近なところでも見ることができます。昔話法廷とかいう番組はそういった古典的な作品を現代の倫理観にあてはめて議論を起こしていますが、私のこの作品はそのプロセスの1部を端折ったものとなります。思考実験ですこの作品は。
考察して考え尽くしてさい。思考は人間にしか出来得ません。僕は自分が人間であるのを再確認するツールのひとつとして思考を紹介したいです。

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