主記録・YOASOBI東京ドーム公演
20241110
日曜日、YOASOBIさんは初めての東京ドーム公演を行った
その場に僕がいた事実がとても誇らしい
YOASOBIのライブはすごかった
毎曲の度、歌い終わると「ありがとう」と言ういくらさんが好きになった
あやせさんの曲といくらさんの歌が5万人をひとつにした奇跡が目の前で起きていた
心地よい爆音が流れる中で、僕は迷子になった
一瞬我に返ると、なんと床が揺れていた
それまで集中しすぎて気がつかなかったのが不思議だったくらい
YOASOBIに感化された5万人が東京ドームを揺らしていた
大衆運動は僕の興味分野なんだけど、目の前でこういうことが起こるのが堪らなく感動した
毎朝、山の手線に揺られているけれど、東京ドームに揺らされたのは初めての経験だった
そういうのも全部含めて、僕はこの上なく感動していた。
実体的な宗教のようで、僕の心を正確に掴んできたYOASOBI音楽だった。
ライブで手を振るのは苦手だったけど、この日は気にならないくらい叫んだし手を振っていた。
恥ずかしいとかはない、誰も僕のことなんか見ていないから。
5万人の視線がYOASOBIに集まって、僕の周りは逆に気圧が薄かった
僕がここから消えたら誰も気づきはしないんだろうな、とも思った。
周りはただ熱狂するファンだけで、自分はただただ孤独だった。
だから余計に目の前の音楽にすがった気がする。
音楽はある種、救いというのは目の前の苦境から一瞬我を忘れることができるから。
でも現実逃避にほかならないこれを救うと言えはしない。音楽に救われたかと言っているやつは、洗脳された教徒みたいだ。音楽の感動も高揚僕は感じるし、その力は認めている。
けど音楽も芸術も、感動を呼ぶのはね、これ自身がむき出しの感情を概念化したもので、共感されているんじゃないかなって思ってる。
僕が音楽に没頭したのは、誰かが感情を流し込んで創り上げた楽曲が、多くの人を元気づける仕組みが気になったから。音楽が精神的なエネルギーになるなら、1人の作曲家や歌手の偉大さというのは計り知れないものになる。恒久的なエネルギー源をばらまいているんだもの。けれども僕はこれを根本的に誤解していた。音楽に感化された人は救われた気になってはいるけれど、その救世主は自分自身の心の内にあるんだということ。そういう意味で音楽は実体的な宗教なんだよ。
音楽の怪物というのはこの事だと思う。違うかもしれないけれど。