手記録20240920(障がい者のお礼)


障害者は不幸だとは思います。少数派として現世に産まれて、障害とされてしまっていることです。
だから障害者が周りの助けが必要なことも、社会が福祉を施しきることも大切なのです。

障害者は周りから助けられることは多いですが、その扶助に対して障害者側がお礼を言うことはないという意見を目にしました。
これが酷く誹謗されたのはなんとなく察しました(僕の差別意識なのですかね)これは考えたこともないことでした。

僕の常識では、助けられたらお礼を言います。人を傷つけたらば謝ります。至極といっていいほどに当たり前のことです。
もちろんそれを批判の論拠にする人もいました
ですが障害者と僕とでは環境が違うということを改めて理解したのです。これは障害者は生きづらくてひねくれてるみたいなことを暗示する皮肉的な文句じゃありません。障害者が障害者として世の中に暮らしずらさを感じること、障害者は何も悪いことはしていないのに周りの助けが必要な環境なのです。つまるところ、僕が落とした財布を拾ってもらったってお礼をするのとでは訳が違うのです。
ありがとうという言葉は漢字では有難うですよね。在る事が難しい(あるいは珍しい)という意味で、他人からの親切を大切にしたいという意思がある言葉だと思いますが、障害者に対しての助けというのは在ることが易きべきなのです。

障害というのは明確に線を引くものではなくて、みんな違ってみんな良い的な感じで、個性のかなりに極端なところだと思っています。個性が行き過ぎたゆえの生きずらさなのです。だから要素で言えば、僕も障害の傾向はあるはずですし。
ただ重い障害と認定されず、日常的な特別支援が必要なわけでもありません。
しかし誰もが障害者と認定される可能性がありました。現代社会での福祉の基本的な意味ですよ。
確率的に重度の障害者が存在するのであれば、僕らはラッキーだったんです。恩恵は受けているんです。
それを知らずに彼らの生きずらさもつゆ知らず、自分の物差しで誹謗を繰り返すことはやめた方がいいです。知らないことは特権らしい。その境遇にいた人にしかその辛さは分からないという言葉は本当でした。多くの人は想像もしないからです。僕の言葉が福祉の意味について考え直すきっかけになること、彼らへの差別がなくなることを願っています。

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