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おそらくとても大切なこと。

水を注いだ銀色の手鍋を火にかける。しおりをはさんでいたページをひらいて、読みかけの小説のページをめくる。一行ずつ大事に右から左に少しずつ。ある初老の男性が猫と( 実際的な意味で )会話をしている場面。迷子になってしまった猫を探すのが彼の仕事だ。そんな彼の奇妙なしゃべり方が不思議と心を落ち着かせてくれる。

「沸いてるよー」

奥さんの声で顔をあげる。ガスコンロのほうに目をやると、鍋の蓋がコトコト震えている。おっと、慌てて立ち上がって駆け寄り火を消した。手際よくマグカップを準備して、玄米コーヒーの粉末をスプーン一杯分すくって入れる。手鍋から沸騰したお湯をちょぼっと注ぐ。玄米コーヒー粉末がだまにならないように丹念にスプーンでかき混ぜる。ぐるぐるカチャカチャ。またすこしだけ追加でお湯を注ぐ。念には念を入れてかき回す。程よいところでスプーンをあげるとしばらく水面が渦巻いている。最後にマグカップいっぱいまでお湯を注いで、はい、完成。

こぼさないように注意してテーブルまで運ぶ。椅子に腰掛けて、玄米コーヒーを一口すする。ふぅ…お腹の底のほうから声が漏れる。ふつうのコーヒーよりもやさしい味。一日のはじめとおわりに実にふさわしい。コトン、マグカップをテーブルに置く。

また小説を手に取り、初老の男性と猫の会話に戻る。彼がたいへんなトラブルに巻き込まれそうな怪しい雲行きになってきた。ハラハラしながら、目を上から下へと動かす。一文字また一文字。つづけて右から左へ目を移す。一行また一行。

ていねいに何かをやるということは、この世界にあっておそらくとても大切なことな気がした。そうしてぼくは小説を片手にマグカップに口をつける。口のなかがぼくの世界のすべてになった。

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