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愛情を注ぐということ。

 いざ、下界へ。

 出産の日から数えると、合計5日間お世話になった産後ケアハウスをあとにした。娘、妻、僕の3人だけでほぼ4日間丸一日いっしょにいたことになる。そしていまになって思うことは、うまれた直後しばらくのあいだ、両親がずっとそばに居てくれるというのは、娘の安心感を育てるうえで大切なことだったのではないかということだ。

 抱っこしたり、話しかけたり、あやしたり、( 妻が )おっぱいをあげたり、オムツを変えたり、洋服を着替えさせたり、心配したり、喜んだり、笑ったり、泣いたり、頭を撫でたり、ちっちゃな手をにぎったり、背中をさすったり、子守唄を歌ったり、、、徹底して娘を中心とした時間をすごした。極端な話をするならば、妻と僕の頭も心も体もそのぜんぶを娘のために動かした、そう言っても過言ではないと思う。

 もし僕が逆の立場だったとしたら、やっぱりうれしいと思う。すごくすごく、すごく心も体も満たされると思う。たとえば、である。僕が病気で弱っているときなどに、妻にちょっとやさしくされただけで、もぅ、ね、あとは言わなくてもわかるでしょ?

 うまれた直後なんて特に、両親と助産師さんや看護師さんが世界のすべてなわけで。子どもの世界のすべてである人たちが、どんなふうな接し方をしてくれたかで世の中に対する捉えかたが変わるは当たり前のことである。愛ある対応か、事務的で雑な対応か。その愛はどのくらいのものなのか。( ここで言いたいことは、病院の助産師さんや看護師さんたちの対応が悪いということではありません )

 だからこそ、うまれてきた直後にたくさんの愛情を注がれた子どもは、やっぱり世の中に対する安心感が増す。これからその子その子の個性という花を咲かせていくうえでの土壌が耕やされるようなもので、

 きっと大丈夫だろう、
 きっとうまくはずだ、

 という善き心のくせみたいなものが育つのではないかと思うのだ。

 そうしてこれは、新生児や子どもだけに限った話ではない。どんなに大人になっても、たっぷりと愛情をかけてもらっている人というのは根底的な安心感があるように思うのだ。それは、俺は絶対大丈夫とか、自分が正しい、などという変な安心感ではない。どんな人にも怖いことや不安なことはあるはずで、しかしそんなときにも、そのなかに飛び込んでいけるつよさの土台となる安心感のようなものが。

 その愛情はもちろん誰か別の人に注いでもらうこともできるが、自分自身に対して愛情をかけてあげることはできる。たとえば僕はこの期間、風邪っぽかった。娘を抱っこしすぎて腰も痛めた。それでは、ただの犠牲になる、そう思った。そこからは、自分の時間も大切にするようにしたり、自分自身を労わるようにしたのだ。

 ぜひ、大切な誰かに、そして何よりいちばん身近な自分自身に対して、いまよりもうちょっと、できればたっぷりと愛情を注いであげてほしいのです。

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