慮るということ
慮る(おもんぱかる)の「慮」という字を見て
思い浮かぶ言葉。
「配慮」「遠慮」・・・
配慮とは
遠慮とは
さて、どちらがよいのでしょう。
もちろんどちらも悪くはありませんし、どちらかを選択しながらコミュニケーションを取ることでよいのだと思います。
なぜ私が改めてこのようなことを考えたかというと、
高齢者活躍人材確保育成事業を始め、シニア世代の就労をお手伝いする研修事業を行う中で、さまざまな人生の先輩の姿を見てきており、また自身の両親もシニア真っただ中であり、コミュニケーションの取り方について考えること機会が増えてきたから。
配慮も遠慮も大事なのは大前提だけれど、私は配慮の方が遠慮も含め考慮していると感じているのです。遠慮は美徳のようであり、相手を思いやっている側面もありますが、遠慮はほどほどに、遠慮しようとすることに対して考慮して配慮できるのがよいように思っています。言葉遊びのようでまどろっこしい表現ですがそう思うのです。
特に家族において、遠慮は不要!でも、配慮は必要!そう感じています。
よくある公共交通機関での席の譲り合い。せっかく勇気を出して席を譲ろうと声をかけても、いいです、大丈夫です。そうなのかもしれないけど、ここは素直にありがとうと譲られるのも配慮ではと、そういう場面を見て思うし、私が譲ろうと声をかけた場合でもそうしてほしいと思うのです。
遠慮より配慮と思う理由
コミュニケーションにおいて、アサーションという考え方がある。
アサーション=アサーティブなコミュニケーションとは、自分も相手も大切にした自己表現と説明されています。
配慮の説明には「事情を踏まえて、気遣いのこもった取り計らいをすること」とあり、遠慮の説明には「自己の欲求や意見を抑制する行為」とある。
ということは、アサーティブなコミュニケーションを理想とするならば、配慮の方が近しいように感じるのです。