水の様に流れるままに 第一章「水脈を掘り当てる」
私がいうところの「水の様な生き方」とは
「上善如水」という座右の銘をどの様に
解釈しているのかを先ずはお話しする
必要があります。
宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」が
私の信条を分かりやすく表現して
くれていると感じておりますので、
引用させていただきます。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋からず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って
怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい
私は水の様に生きるという事を
宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」に
重ねているところがあります。
アンパンマンの作者やなせたかしさんが
インタビューに答えた記事に
人は人に喜んでもらうことが一番嬉しい。
人生は喜ばせごっことおしゃっていました。
宮沢賢治さんが理想とした生き方や
やなせたかしさんが見つけた生き方の中に
私は水の様に生きるというヒントが
沢山詰まっていると感じます。
私自身も宮沢賢治さんが目指した
理想の生き方を範とし、
やなせたかしさんと同様の価値観にもとづき、
残りの人生は人をできるだけ沢山
喜ばせられる様に生きようと決めています。
宮沢賢治さんややなせたかしさんの様に
私もはじめから崇高な使命感を持っていたのかと
言えば答えはNOと言わざるを得ません。
私が今の様な思いに至ったのは
鬱病を発症し、心身共に弱り切った際に
徹底的に自分と向き合ったのがきっかけでした。
もともと水の様に生きたいとの
想いはありましたが、目まぐるしい毎日の中では
そんな事すらも忘れて、ただ機械的に
日々をこなしているといった
状況だったと思います。
自分と向き合う中で自分の心の矛盾や
違和感、不信などの不純物を長い時を経て
自分の中に溜め込んできた事を知りました。
そんな汚れを浄化し、取り除く為に
私が一番最初に取り組んだ事は
自分の心のままに機嫌良く生活を送る事でした。
散歩に出かけ日光浴や自然との触れ合いを
楽しんだり、家族との食事や旅行を満喫し、
なるべく自分が機嫌良く生活できる事を
選んで、自分の心の声にとにかく丁寧に
耳を傾けました。
そんな穏やかで豊かな時間を過ごす中で
徐々に汚れが浄化され、心が悦びに満たされる事で
薬の量も減り、通院する様になってから僅か
6ヶ月で完治に至ったのです。
年齢も40代に突入し、残りの人生を考えた時、
誰の為のものなのか分からない人生と生き方を
卒業しようと決意し、ここから先は自分の為に
自分が満足できる人生と生き方を送ろうと
心に誓いました。
現代社会という濁流の中にあっては私達の
心は淀み、何時しか知らず知らずに汚れを
溜め込んでしまうものです。
ですから先ずは心軽やかに機嫌良く生活を
送る中で長年の汚れを浄化する事が必要です。
機嫌良く生きる事で生命の源泉を清らに保ち、
今まで使っていなかった水道管の錆を
落とすがごとく
自分が自分らしく豊かさを感じられるまで
生命の泉の湧水を流し続けるのです。
近道はとにかく機嫌良く過ごす事。
心を悦びで満たす事に他なりません。
逆説的に申し上げれば機嫌が悪いことが
諸悪の原因であり、不幸の入口なのです。
不幸にも2種類あります。
一つ目の不幸は他者によって外から
やってくる不幸です。
具体的に申し上げればイジメや
妬み嫉み、パワハラなど自分以外の
他者から発せられるエネルギーに
巻き込まれる形で不幸を形成する場合。
二つ目が自分が自分で知らず知らずに
自分を不幸にしている場合です。
現代の人々を俯瞰して見ると
実は後者の様な不幸を享受されている
残念な方が多い印象があります。
自分を自分で不幸にする人なんて
いる訳がないと思うかもしれませんが、
虚無感や失望から自らを不幸に追いやってしまう
人がいるのも事実です。
皆さんにも体験があるであろう場面を
一緒にイメージしてみて下さい。
コンビニエンスストアでの買い物の場面、
とても明るく他の店員とは異彩を放つ
店員さんがいます。
片やとても態度が悪く印象の悪い
店員さんがいたとします。
皆さんはそれぞれの店員さんに
どんな感情を抱くでしょうか?
対照的な二人の店員さんですが、
実はどちらも自分の望んだ人生を生きています。
感じの良い店員さんは恐らく機嫌の良い選択をして
機嫌良く働いていらっしゃるのでしょう。
ですから機嫌の良い波動がお客様に伝わり、
更に機嫌が良くなるような波動をお客様から
無意識的に受け取っているのです。
逆に感じの悪い店員さんは機嫌が悪いので
機嫌の悪さが態度にでるのでしょう。
ですから機嫌の悪い波動がお客様に伝わり、
更に機嫌が悪くなるような波動をお客様から
無意識の内に受け取るのです。
車の運転をする方なら共感いただけると
思うのですが、脇から車が車線に進入して
こようとする場面であなたが無意識的に
入れてあげる人と絶対に入れたくないと
車間を詰める人の差はなんですか?
そこに理由はないけれど
確かに許される人と許されざる人の
不思議な差が生まれるのです。
車を運転する方なら皆さん、経験をしたことのある
場面だと思います。しかし、その違いに理由を
もって答えることは誰にもできないと思います。
でも無意識的に受け取っている波動が
存在するからこそ、結果に違いが生まれるのです。
ですから結局は幸不幸といえども自己責任であり、
幸せを感じるのも不幸を感じるのも自分自身が
望んだ選択の結果でしかないのです。
ですから外からやってくる不幸も
内から生まれる不幸も本当に自分が
幸せになりたいと望むのならば
自分の意思と選択によって回避できるのです。
仮に私はこんなにも不幸で可哀想と思うなら
不幸で可哀想を望んで選んでいるのは
あなた自身なのです。
自分の機嫌は自分で取りなさいと言われる通り、
自分の意識と選択、行動によっていくらでも
機嫌良く暮らすことは誰もができることで、
決して難しい事ではないのです。
機嫌良く暮らす事は自分を深掘りする事に
直結します。自分を知り、自分を大事にする
生活の中で誰もが生命の清らかな水脈に
辿り着けるのです。
水の様に流れるままに
第一章「水脈を掘り当てる」 終わり
著者:スエヒロハジメ
著作
「光の中に生きる」
「Forever Young」
「選択が切り拓く人生」
↑ノート内にて公開中(期限付)
併せてご覧いただけたら幸いです♪
新作「水の様に流れるままに」にも
つながっていく内容となっています