【エッセイ】海での時間
海は、なんだか私にとって特別だ。ちょっと特別なときに行く場所、と言い換えてもいい。決して日常的な場所ではないが、どうにもこうにも魅了され、定期的に訪れずにはいられない。
嫌なことがあったときにも最近はふらっと海に行くことが多い。今住んでいる場所から海を見ようと思うと1時間半くらいの小旅行になるがそれも悪くない。人生には、ぼーっと電車に乗る時間も必要なのだ。
どうにかたどり着いて海を見ると、どんな海だったとしても、まあ明日も生きますか、という気分になれるから不思議だ。
原体験は幼少期に父に連れて行かれた海かもしれない。毎年夏に三重県にいる祖父・祖母に会いに行くときは、家には狭くてとても泊まれないので伊勢や志摩の旅館を取って泊まっていた。あのあたりは砂浜(ビーチというよりかは砂浜という表現をしたい)に事欠かない。おばあちゃんに会いに行くたびに必ずそこらの砂浜で泳ぎ、シュノーケリングをして魚を見つけては叫び、力のある父に放り投げられては叫び、くたくたになるまで遊んだのだった。
その後、中高生のときには部活、大学時代はサークルがあり、住んでいた場所には海が近くになかったのでしばらく海に入らない生活が続いていた。それでもベースとして海が好きという気持ちはあるにはあって、人並みにときどき海水浴というイベントがあったり、他にも海行くぞ!というタイミングは逃さないように海を見に行っていたのだった。
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転機は大学院生になり友人に誘われたダイビング。海の中の世界を知った。
海の中は魅力的だった!
最初に入った沖の海は、どこまでも青く、静かだった。そこには陸では見たことがない景色があった。
海の中ではまるでダースベイダーのような自分の呼吸音と、水のコポポ…という音しか聞こえない。(八丈島でクジラの声を聞いたことがあるが、それはまた別の話。)
ダイビングも上達してくると、そんな水音の世界の中で、まるで無重力空間のように上下左右、好きなように水の中を飛び回ることができるようになる。それはまるで宇宙遊泳のようで、漂っているだけでとても気持ちがいい。(正確には中性浮力を使って無重力のような空間を演出しているだけだがまあそこは置いておいていただきたい)
そこに暮らしている生き物と出会えるのも面白い。水族館はもともと嫌いではなかったけれど、枠に囲われた場所に生き物を囲うというのが元来あまり好きではない自分にとって、ダイビングで広い海で暮らしている生き物の生態をありのまま観察できるのは心躍る体験だった。
めちゃめちゃ近くを泳いでくれる亀、威嚇してくるクマノミ、宝探しのようなウミウシ探し、他にもバクバクご飯を食べている魚を見るのも面白いし、夜潜るととんでもないところで眠っている魚がいたりする。
また、同じ魚にもいろんな性格があるなあと思うくらいには行動に個体差があったりして、観察していると面白いのだ。
水中ではコミュニケーションが制限されるのもまた面白い。自由に話すことはできないので手話のようなハンドシグナルや、筆談用のスレートに書き込んでコミュニケーションを図る訳だが、思ったように伝わらないこともあるし思った以上に伝わることもあって、陸で答え合わせをするとこれがまた笑えたりする。
コミュニケーションの不自由な感じは外国に行った時を思い起こさせる。全てが伝わりきらなくても良いのである。100%伝わることだけがコミュニケーションではない。言葉が通じないからこそ、一つの小さなことが伝わったらより嬉しい。
海外であれば、お店でクッキーが買えただけで嬉しいし、海の中であれば「写真撮って!」というジェスチャーがバディに伝わるだけでなんだか嬉しいではないか。
不自由であるという面白さ。
不自由を選ぶ自由さ。
そこで見られる素晴らしい景色。
ああ、なんてたのしい、海での時間。
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海は恐いときもある。
小さいことだとクラゲに刺されるとか、毒のあるモノを触ってしまってかぶれるとか。
台風が来てがっしゃんがっしゃんの海はなかなか私たちを受け入れてくれないし、数千人の人やビルさえ飲み込んでゆく津波も海だ。
「海の藻屑」という言葉はよく言ったもんだと思う。こりゃすぐ死ねるなあと思うときは多々ある。
なんなら、人間のちからを超越している感じも好きなのかもしれない。人は海の前では無力だ。中でたった30分息をするために、覚えないといけないこと、持っていかないといけないものが山ほどある。
絶対に叶わない領域に、お邪魔します、という気持ちで入らせていただくのが、ダイビングをはじめとしたマリンアクティビティだと思う。
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最近海に行くと、幼い時に身近だった海に戻ってきた感覚がある。安心するし、ドキドキする。心が動く。
次の計画としては、海辺に住んでみたい。海の近くに暮らして、自転車で海に行ける生活。東京の真ん中に住む私にとって、今は海は少し遠い存在だ。身近になるとどういった姿を見せてくれるのだろう。わたしにどんな感情の変化を生んでくれるのだろう。
近々叶えられそうなので今からわくわくしている。
最後は、大好きな俵万智さんの短歌で。
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海