恥じらいの心を持つこと
現在、内部も公開されている大阪万国博覧会(1970年)のシンボル「太陽の塔」をデザインしたことで知られる芸術家 岡本太郎氏の言葉です。
「芸術は爆発だ!」というTVCMのセリフで一世を風靡しました。
他にもさまざまな名言を残されています。
『涅槃経(ねはんぎょう)』という経典では、
と説かれています。つまり、「慚愧(はじらいの心)が無いものは、人ではなく畜生(けだもの)である」というのです。
傍若無人にふるまい、何の恥じらいも持たない。
世の中にはそういうひとがたくさんいます。
そういう人々を『涅槃経』では「人間」ではなく「畜生」と呼んでいるのです。
自分らしさ中心、自分中心の人には自分の立ち位置が見えていない人が非常にたくさんいます。そもそも、自分らしさを他の"らしさ"以上に優先させた時点で、その人は組織内の異端者となります。
こういった概念は「自由」や「ルール」などにも当てはまります。
自分が一人だけで、誰にも影響を与え合わず生きているわけではない以上、自分が活きる環境の中で組み込まれた、あるいは参加した集団の中では必ずルールがあり、自由があります。その限られた範囲の中で"らしさ"を構築していかなければなりません。
もし、これを無視するということは
自分らしさのために、組織を逸脱する
自分らしさのために、社会を無視する
と言うことになります。
これはもう、社会不適合者でしかありません。
昔は「慚愧(ざんき)の念に堪えない」という言葉を頻繁に聞きましたが、今ではほとんど使われなくなっています。会話の中で「お恥ずかしい」と言う人も減っている気がします。
日本の社会の中で「慚愧」をもって「人間らしく」生きる人が減少していることの表れなのかもしれません。他人の振る舞いを非難するのではなく、一度、自分自身の振る舞いを検証してみてください。
みなさんは人並みの恥じらいを持って「人間らしく」生きていますか?
そして、
人間らしさ
社会人(大人)らしさ
属する企業の社員らしさ
役割らしさ
そして、自分らしさ
をそれぞれ持って生きていますでしょうか。
これらの"らしさ"は上から順に包含されていなければなりません(上図ピラミッドは逆)。全ての"らしさ"を持ちながらその中で許される自由の中で自分らしさを見つけなければ、かならずどこかと相いれない人生を送ることになるでしょう。