
須田光彦 私の履歴書⑥
宇宙一外食産業が好きな須田です。
私一人が幼稚園に行けない毎日でしたが、そんな私を不憫に思ったのか、
勉強が幼稚園生よりも遅れることを心配したのか、このころより、毎日母による勉強会が始まりました。
遊び倒していた日々が終わりをつげ、勉強という強制的に縛られることが始まりました。
母は、最初は教え方も上手くて色々なことに興味を持っていた私ですが、段々と難しくなってきて面倒くさなっていきました。
そんな時の母の一言が大嫌いでした。
「勉強しないとお父さんみたいになるよ!」
確かに父は学がありません。
戦後のどさくさ時代に青春を過ごし、生き延びることで精一杯の時代を過ごして、好きな車いじりで公務員の職を得た人です。
まだ幼った弟と妹の面倒を見るために、安定した職に就いた人です。
夫婦関係のこともあって、母は学の無い父を認められないところがありました。
当時の私にとって父は大きな存在でした。
大具道具を使いこなしてなんでも作れる、柔道の有段者で野球もうまくて強くて頼もしい父でした。
当時なかなかおもちゃなんて買ってもらえなかった時代ですが、ブリキのおもちゃが壊れるとコソッと父の上着のポケットに壊れたおもちゃを入れておきます。
すると、完璧に修理されて戻ってきます。
父が勤めている工場にはあらゆる機械があります。
ほとんどははんだごてで修理出来るようは壊れ方でしたが、それでも4歳5歳の子供からしたらまるで魔法でもかけられた様な気分でした。
「お父さんに出来ないこことはない!お父さんにお願いしたらなんでも直してくれる」そう思ったものでした。
そんなときに母から真逆の価値観を授けられたことに、強い違和感がありました。
でも子供ですから反論も異論を唱えることも出来ません、黙って聞くしかできない毎日でした。
父は本当に器用な人で、どんなものも手作りしてくれました。
こいのぼりを掲げる5mほどの柱も自分で立てていましたし、洗濯物を干すための支柱と竿も、鳩を買っていましたが、鳩小屋も作りましたし、壊れた自転車も完璧に修理してしまうほど、兎に角何でも作ってしまう人でした。
公務員になる前は蒸気機関車の運転手をしている時期もあったようで、なんと東映のやくざ映画にも出ていました。
鶴田浩二、高倉健の両巨頭が全盛期の時代に、北海道といえば網走刑務所ですが、網走刑務所を舞台にした映画があって、脱走したやくざが機関車で逃走するシーンがあり、その機関車の運転を任されたのが父だったそうです。
蒸気機関車の運転技術が断トツで上手かったようで、抜擢されたそうです。
昔の写真が出てきたことがあって、若き頃の勝新太郎さんと父との記念写真でした。
父は、彫の深い精悍な顔立ちをしております。
若い頃の父は、スクールウォーズに出ていた松村雄基さんにそっくりでした。
二枚目ですが、はっきり言って不良顔です!
はっきり言って相当怖い顔をしております。
映画俳優の方との記念写真を見ても、どっちがやくざ役でどっちが父なのか一瞬わからないほど、それっぽい顔をしています。
私は母似で良かったと心底思っていますが、何かの時の目つきは父譲りのようです。
声は全く父譲りです。
この勉強をする日々の中で、母から盛んに言われたことがあります。
この言葉の影響が起業することが当り前、大きくなったらお金持ちになると決めた源泉と思います。
その言葉とは、母の人生訓のような言葉です。
「大きくてもクジラの尻尾になんかなるなよ。小っちゃくても鰯の頭になれ! それが男だ」
何かとこの言葉を浴びせられました。
恐らく母はもっと勉強をしたかったにもかかわらず、女性であることと、11人兄弟の長女であったことなどから進学を断念して、医療関係の仕事をしていました。
結婚した相手も公務員です、安定が最も大事な時代ですから、安定は手に入りましたが解消出来ない想いがあったのだと思います。
もう子供は授かることは出来ないと思っていた時に産まれた男の子が私ですから、当然、大きな期待を寄せてもいたのでしょう、その期待が先の言葉となって出てきたと思います。
今と違って、本当に素直で純粋な男の子の私は「おっきくなったら頭になる、社長になる、お金持ちになる」と、すっかりと洗脳されてしまいました。
でも、そのおかげで今がありますし、長期スパンで物事を考えられるようにもなり、出来ない我慢も出来るようにもなりました。
父の在り方、母の教えのおかげと今は感謝しております。
ただ、感謝が出来るまでには、50年ほど必要でしたが。
著書の後書きにも書きましたが、起業を後押ししてくれたのは間違いなく母であり父の存在でした。